続・命のビザ ~ ユダヤ難民を迎えた人々 命からがら欧州から脱出してきたユダヤ難民たちを迎えたのは、敦賀の人々の温かい思いやりだった。

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国史百景:続・命のビザ ~ ユダヤ難民を迎えた人々

 命からがら欧州から脱出してきたユダヤ難民たちを迎えたのは、敦賀の人々の温かい思いやりだった。
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■1.エルサレムでの巡り逢い

 神戸市灘区の牧師・斉藤信男氏がキリスト教徒のグループを率いてイスラエルを訪問した時のこと。エルサレム市内のレストランで昼食をとっていると、40歳前後の婦人が話しかけてきた。

 婦人は、斉藤氏一行が日本人であることを確認した上で、「日本の皆さんに感謝したい、私たちは杉原ビザによって救われた子孫です」と語った。婦人の祖父が妻と幼い子供(夫人の父親)を連れて、そのビザで欧州を脱出し、シベリア鉄道経由で日本にやってきたという。

 三人は神戸にしばらく滞在した後、オーストラリアに渡った。夫人はそこで生まれ育ったのだが、祖父から日本に助けられたことを繰り返し聞かされて育ったようだった。

 実は斉藤牧師の父親は、当時、神戸で牧師をしており、ユダヤ難民たちを教会に招待したり、リンゴを配ったりしていた。夫人の祖父とも会っていたかもしれない。半世紀後に、両者の子孫がエルサレムで出会うとは、不思議な巡り合わせではある。

「私は不思議な気持ちを持つと共に、恩をいつまでも忘れないユダヤ人の民族性に感動しました」と斉藤牧師は語っている。




■2.ユダヤ人保護に立ち上がった日本

 1940(昭和15)年7月、ナチス・ドイツとソ連がポーランドを分割占領した際、大勢のユダヤ人がバルト海沿岸のリトアニアまで歩いて逃れ、そこからシベリアを通り、日本を経由して、アメリカなどに逃れようとした。オランダ、ベルギー、フランスはすでにドイツに占領されており、シベリア-日本経由が唯一残されたルートだった。

 その際に、在リトアニア日本領事だった杉原千畝(ちうね)が数千人のユダヤ難民に日本への通過ビザを発行した。これが「杉原ビザ」である。[a] ただし同時期にウィーン、プラハ、ストックホルム、モスクワなど12以上の都市の日本領事館でもユダヤ人へのビザが発行されていた。[b]

 その根拠となったのが、前年12月の5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で決定された「猶太(ユダヤ)人対策要綱」で、ユダヤ人差別は日本が多年戦ってきた人種平等の精神に反するので、あくまで平等に扱うべし、という国家方針を定めたものである。[c]

 そのまた前年、昭和13(1938)年には、満洲国ハルビン特務機関長の樋口季一郎少将がシベリア鉄道で逃れてきたユダヤ人2万人を列車が雪の中で立ち往生した際に救出している。ドイツから強硬な抗議が寄せられたが、日本政府はこれを一蹴し、逆に樋口を栄転させている。[d,e]

 さらに、同時期に海軍の犬塚惟重大佐は上海の日本海軍警備地区にユダヤ難民収容施設を作り、世界でただ一ヵ所、ビザのないユダヤ難民でも受け入れて、1万8千人を安全に収容していた。[f]

 当時の欧米社会で、非キリスト教徒、非ヨーロッパ人種という点で、日本人とユダヤ人はともにアウトサイダーだったのであり、ユダヤ人排斥は日本人にとっても他人事ではなかった。[g]

 杉原領事の大量ビザ発行は、外務省の行政手続きルールには違反していたかもしれないが、国家方針からも、また同じく人種差別の被害者という国民感情からも、筋の通った処置であった。その杉原ビザでやってきたユダヤ難民たちを、当時の日本人がどう迎えたのか、史実を辿ってみよう。


■3.「これからは日本の天皇が私たちを守ってくれるだろう」

 当時、10歳ほどの少年だったヤン・クラカウスキー氏は想い出をこう語る。

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 シベリア鉄道は単線で、対向列車を通すために頻繁に停車しなければなりませんでした。そのたびにソ連の官憲が乗り込んで来て、いろいろチェックするので不安でたまりませんでした。実際に、途中で連行されていた人たちもいました。結局、モスクワから2週間かかりました。[1,p147]
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 ソ連の官憲に手荷物検査されて、金目のものを押収されたりした人もいた。

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 そんなうんざりするような列車の旅の後だっただけに、(JOG注:ウラジオストックから日本の)船に乗ったときは有頂天にありました。ですから、船は古くて臭く、床の上で雑魚寝をしなければなりませんでしたが、まったく苦痛を感じませんでした。[1,p147]
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 ソ連の領海をでたとき、乗客はほとんど全員、甲板に出て一斉に『ハティクヴァ』を歌い出しました。今のイスラエル国歌です。それはもう本当に喜びの爆発でした。横にいた父は私の肩に手を置き、「もう大丈夫だ。これからは日本の天皇が私たちを守ってくれるだろう」と言いました。

それを聞いて、私はそれまでなにも知らなかった日本が急に身近に感じ、天皇というのはそんなに偉大なのかと思いました。私が今でも日本に親しみを感じ、信頼を寄せているのは、このときの経験によるものだと思います。[1,p146]
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■4.「人道的見地から引き受けるべき」

 ウラジオストックから敦賀までの船は、週1回定期運行していた日本郵船の天草丸だった。ユダヤ難民の輸送業務は、全米ユダヤ人協会から依頼を受けたジャパン・トラベル・ビュロー(現在のJTB、以下JTBと記載)が担当した。

 難民輸送の依頼を受けたJTB本社では「果たしてこの依頼を受けて良いか議論が戦わされたが、人道的見地から引き受けるべきとの結論に達し、、、」と関係資料に記載が残っている。[1,p29]

 反ユダヤ政策をとるドイツやソ連に睨まれる、という事業上のリスクはあったはずで、人道的見地からこれを引き受けた同社の勇断は賞賛されて良い。

 JTBの職員で実際に天草丸に乗り込んで、輸送を担当した大迫辰雄(おおさこ・たつお)氏の手記が残っている。昭和15(1940)年の後半から翌年春にかけて、日本海が非常に荒れる時期だった。

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 船首が大波をかぶってぐっぐっと沈み、甲板が海水で溢れて大丈夫かなと思うほど気色が悪い。・・・

(乗船客の)ユダヤ人はパスポートを持たぬ無国籍人が多く、欧州から逃れてきた難民ということで、・・・中には虚ろな目をした人もおり、さすらいの旅人を彷彿とさせる寂しさが漂っていた。私はこの時くらい日本人に生まれたことを幸せに思ったことはない。
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 船中で面倒を見てくれた大迫氏への感謝の印として、7人の難民が顔写真を贈っている。その裏にはフランス語やドイツ語、ポーランド語など、各地の言葉で感謝の言葉が綴られていた。着の身着のままの状態でヨーロッパから脱出した際に持ってきたかけがえのない写真であることを考えれば、彼らの感謝の念の深さが分かる。


■5.「本当にうれしそうだった」

 同じく当時10歳ほどの少年だったレオ・メラメド氏は、記憶をたどって、こう語っている。

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 さて、我々の天草丸が敦賀港に近づくと、雪に覆われた周囲の山々が眼前に迫ってきましてね、実にきれいな景色でした。冬だというのにとても暖かく感じましたね。それもそのはずです、零下何十度という極寒のシベリアからやって来たのですからな。・・・

人々は麦わら帽子をかぶり、雪かきをしておったようです。私が抱いた印象はとても素朴で、親切そうでしたよ。[1,p168]
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 ユダヤ難民を乗せた船の到着は日本の新聞で報じられており、それを読んだ母親が10歳の少年を連れて、港まで見に行った。少年は後にこんな手記を残している。

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 小さな貨物船でユダヤ人が甲板一杯にいた。見ていて海に落ちるのではと私は思った。上陸はまだしていなかった。うれしそうに話をしていた。男・女・子供の声が聞こえた。本当にうれしそうだった。にぎやかだった。甲板の人が気づいて自分たちに手を振ってくれた。そのときにはわからなかった。今考えると生涯で出会った最高の笑顔だった。[1,p82]
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■6.「リンゴを一口かじっては後ろへ回して全員で食べていた」


 昭和16(1941)年2月24日に敦賀に上陸したサミュエル・マンスキー氏は、こう回想する。

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 ・・・敦賀は私たちにとってはまさに天国でした。街は清潔で人々は礼儀正しく親切でした。バナナやリンゴを食べることができましたが、特にバナナは生まれて初めての経験でした。[1,p112]
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 また「ユダヤ人が港から敦賀駅まで歩いて行くときに、リンゴを一口かじっては後ろへ回して全員で食べていた」光景を記している人もいる。港についた難民たちに、リンゴやバナナなどを配った少年がいたらしい。港近くの青果店の少年が、父親の指示で持って行ったようだ。

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 少年がリンゴなどの果物を、ユダヤ難民に無償で提供したという話があるが、この少年は私よりも6歳年上の兄(当時13~14歳)だと断定しても、ほぼ間違いないと思う。・・・

 私の記憶では、当時でも店にリンゴ、みかん、乾燥バナナなどが沢山あったように思う。・・・

それにしても、兄の考えで篭いっぱいのリンゴなどの果物を持ち出せないので、これは敦賀とウラジオストックを行き来していた父親が気の毒なユダヤ人難民のことを知っていて、兄に指示して持って行かせたのだろうと思う。[1,p80]
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 父親は敦賀とウラジオストックの間を行き来していたというから、おそらくは天草丸に乗り合わせ、ユダヤ難民の惨状を直接見て、こんな措置をとったのだろう。


■7.身につけている時計や指輪を

 ユダヤ難民は港から敦賀駅まで歩いたのだが、駅前ではこんなこともあった。

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 昭和15~16年頃、私は県立敦賀高等女学校(15~16歳)に通っていた。南津内(現・白銀町)の実家は駅前で時計や・貴金属を扱う商売をしていました。港に船が着くたびに、着の身着のままのユダヤ人が店に来て両手で空の財布を広げ、食べ物を食べるしぐさをして、身につけている時計や指輪を「ハウ・マッチ」と言って買ってほしいとよく来ました。

父は大学を出ていて、英語が少し話せたのですが、訛りが強いのか筆談で話をしていました。そして沢山の時計や指輪を買っていました。ユダヤ人はそのお金を持って駅前のうどん屋で食事をしていました。

 また、父はユダヤ人に店にある食べ物を気の毒やと言ってよくあげていました。私も持っていたふかし芋をあげたこともあります。[1,p85]
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 難民たちは垢だらけで臭いので、銭湯の「朝日湯」が一日休業して、彼らにタダで使わせたが、その身体があまりにも汚れていたので、後の掃除が大変だった、という逸話も残っている。


■8.「一視同仁」と「八紘一宇」

 こうして難民たちは、敦賀の人々から温かい歓迎を受けた後、神戸や横浜に移動し、そこからアメリカその他の地へ旅立っていった。命からがらの旅を数ヶ月も続けて来た後に、日本人たちから寄せられた親切は心に染み入っただろう。

 敦賀での難民受け入れの事績を調べている井上脩氏によれば、敦賀はウラジオストックとの定期航路が開かれてから、異国情調が漂う町になり、

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加えて、昭和初年頃から、「一視同仁(いっしどうじん)」や「八紘一宇(はっこういちう)」の精神が強調された教育が徹底して行われたこともあって、敦賀は難民の受け入れに適応した“人道の港”としての環境が整っていたのだと思います。

 当時、小学校では生徒に対してユダヤ難民に関し、あの人たちは自分の国がないため世界各国に分散して住み、金持ちや学者や優秀な技術者が多い。今は戦争で住むところを追われて放浪して落ちぶれた恰好をしているが、それだけを見て彼らを見くびってはならないと教えていました。

 こうしたこともあって、上陸した難民たちは市民から差別の眼差しで見られることもなく、また厳重な警戒や規制を受けることもなく自由に市内を行動していました。[1,p94]
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 一視同仁(すべての人を分け隔てなく慈しむこと)と八紘一宇(国全体が一つの家族のように仲良くすること)を根本精神とする皇室を戴く日本人は、「日本の天皇が私たちを守ってくれるだろう」というユダヤ難民の期待を裏切らなかったのである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(021) 命のビザ
 6千人のユダヤ人を救った日本人外交官
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_1/jog021.html

b. JOG(138) 届かなかった手紙 ~あるユダヤ人から杉原千畝へ~
 世界はアメリカを文明国という。私は、世界に日本がもっと文明国だということを知らせましょう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog138.html

c. JOG(257) 大日本帝国のユダヤ難民救出
 人種平等の精神を国是とする大日本帝国が、ユダヤ難民救出に立ち上がった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog257.html

d. JOG(085) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上)
 人種平等を国是とする日本は、ナチスのユダヤ人迫害政策に同調しなかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h20/wing1394.html

e. JOG(086) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(下)
 救われたユダヤ人達は、恩返しに立ち上がった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog086.html

f. JOG(260) ユダヤ難民の守護者、犬塚大佐
 日本海軍が護る上海は1万8千人のユダヤ難民の「楽園」だった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog260.html

g. JOG(532) 天才・ユダヤ、達人・日本(下)~ 助け合うアウトサイダー
 人種差別の横行する国際情勢の中で、ユダヤ人と日本人は助け合って、危機を乗り越えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h20/jog532.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 北出明『命のビザ、遥かなる旅路―杉原千畝を陰で支えた日本人たち 』★★、H24、交通新聞社新書
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4330291126/japanontheg01-22/

■306号 「笑顔で往った若者たち」に寄せられたおたより

JOG(306)笑顔で往った若者たち
 ブラジル日系人の子弟が日本で最も驚いた事は、戦争に往った若者たちの気持ちだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog306.html

■雅史さん(アメリカ在住)より

 もうかれこれ7年以上、貴誌を購読させていただいております。今年の終戦記念日に、ふと、以前読んだ貴誌の知覧特別攻撃隊の号を読み返したくなり、バックナンバーを開いた次第です。

 今自分が日本人として生を受けていられるのも、彼らを初め多くの犠牲の上にあることを改めて痛感し、涙を禁じえませんでした。ご先祖様が代々紡いでこられた脈々と続く歴史を思う時、今ある自分のふがいなさを恥じると共に、次世代へとこの素晴らしき歴史ある国をつなげるべく、微力ながらも頑張らねば、と心を奮い立たせているところです。

 大げさに聞こえるかもしれませんが、貴誌に出会えたことは、私の人生にとってかけがえのない幸運の一つと考えています。手短ではありますが、日頃の感謝の気持ちをつづらせていただきました。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

■編集長・伊勢雅臣より

 過分なお言葉ありがとうございました。先祖の偉業を感謝し、子孫のために志を持つ日本人が一人増えるたびに、我が国の未来が少しづつ明るくなっていきます。

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