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戦後、父が密航で日本にやってきて、他人の外国人登録を買いました

■戦後、父が密航で日本にやってきて、他人の外国人登録を買いました■


洪正秀弁護士のやさしい法律相談 Q&A…より


【質問】私の祖父の氏は「李」ですが、私の父と私の外国人登録上の氏は「金」です。
    できれば、氏を本名の「李」になおしたいのですが、できるでしょうか。


【回答】
 
あなたのように、本名と外国人登録上の氏や名が異なっている事例は多くあります。

実は私も朝鮮学校に通っていた時代には「尹(ユン)」という氏を使用していました。

戦後、父が密航で日本にやってきて、他人の外国人登録を買ったためでした。 

そのため、親族と会うときは「洪(ホン)」の氏を使用し、学校では「尹」の氏を使用しました。

現在は通名として「洪」を使用し、母親の氏である「星」が本名となっています。
学校時代の「尹」は、ほとんど使っておりません。


日本は朝鮮を植民地支配し、やがて朝鮮人に戸籍制度を強要したのでした。

つまり、強引に朝鮮人に日本国籍(戸籍)を押しつけたのです。

ところが日本は戦後、朝鮮人を外国人とし外国人登録を押しつけました。

そして外国人登録を実施するさいに、いろいろな手違いによって本名と異なる外国人登録がなされたのです(例えば名前を誤って記入されたとか)。


http://bigkorea.seesaa.net/article/19537515.html

http://megalodon.jp/2010-0608-1342-14/www1.korea-np.co.jp/douhou-hiroba/hou-soudan/hon9709.htm





■半島の朝鮮人にとって、戦前から、日本は憧れの地だった…1■

『もうひとつのヒロシマ』 朴 壽南 1983 (「アリランのうた」制作委員会)からの引用
同書はマスコミがよくとりあげる「朝鮮人被爆者の証言集」ですが、その中には彼らの本音も
「削除」されずに収録されています。
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●M・Kさんの証言 【1967年記録、当時64歳女性】

 14のときよ、うちが日本、来たのは。紡績工場、働きに来たんじゃけ、あのとき、年
ひとつ足りんのよ。15じゃいうて姫路の紡績工場、働きにはいったんじゃ。
 大けな工場でのう、朝鮮の娘、300人ぐらいおったよ。寮二つに、いっぱいじゃった。

 うちは自分の自由で、自分から望んで、ムリヤリ、日本、来たんじゃ。家出するみたい
に、来たんじゃ…。はぇ、日本、いきたいてのう、ものすごく日本ええところじゃ思うて、
いきたいんよ。日本の話、きいたら、はぇ、胸がトクン、トクン鳴るんよ。(略)

 あの時分は、日本行ってから、金もうけて帰った人らの話が、村の誰が日本いって、な
んぼ金もうけて帰ってきた、借金返して、流れた田んぼ買うたとか、牛買うた、そんな話
が、あっちでもこっちでも持ちきりじゃったよ。
 はぇ、いなかの村で、はだか足で百姓しとったもんがの、日本行って帰ってくるときは
の、西洋帽子、頭のせて、洋服きて、はぇ、皮靴(ママ)はいて、村帰ってくるじゃけえ、日
本の国、黄金ナラみたい思うたんじゃ。
 おお、日本、開明(文明開化)ナラじゃ、電気明るいし、男も女でも働いたら、働く分、
金になるんじゃ、なんぼでも金もうけでける国じゃ、そんな話、きくのよ。


●三年働いたら、嫁入り支度してからの、ふとん皮やら布地、行李二つ故郷送ったら、現
金が60円残ったよ。それで故郷に帰った。
 五月じゃったか、村の人ら田植えしとる道、うちが、こう人絹の白いパラソルさしての、
水色のチョゴリ着て、こうひざ下の短いチマはいて歩くとの、革靴が鳴るんじゃ。それか
ら、はやりの大けなバスケットさげてから、村の道通ったら、はぇ、口がわるいんじゃ。
「日本がえりじゃ、日本がえりが通るよ」いうて、みんなぁ指さしてみるんよ。
 この年の秋に、おなじ村におった人のところ嫁入りして、夫婦いっしょにまた、日本き
たんじゃ。(略)







■半島の朝鮮人にとって、戦前から、日本は憧れの地だった…2■

★…「女がよその土地、出かせぎに行くのは賎民らのすることじゃ…」
★…渡航証明書を偽造して日本へやってきました

『もうひとつのヒロシマ』 朴 壽南 1983 (「アリランのうた」制作委員会)からの引用
同書はマスコミがよくとりあげる「朝鮮人被爆者の証言集」ですが、その中には彼らの本音も
「削除」されずに収録されています。

●三年働いたら、嫁入り支度してからの、ふとん皮やら布地、行李二つ故郷送ったら、現
金が60円残ったよ。それで故郷に帰った。
 五月じゃったか、村の人ら田植えしとる道、うちが、こう人絹の白いパラソルさしての、
水色のチョゴリ着て、こうひざ下の短いチマはいて歩くとの、革靴が鳴るんじゃ。それか
ら、はやりの大けなバスケットさげてから、村の道通ったら、はぇ、口がわるいんじゃ。
「日本がえりじゃ、日本がえりが通るよ」いうて、みんなぁ指さしてみるんよ。
 この年の秋に、おなじ村におった人のところ嫁入りして、夫婦いっしょにまた、日本き
たんじゃ。(略)

●うちが、13の春じゃった。となりの村、15になる娘がおったんじゃ、これ、募集屋
来てからの、紡績工場連れていったんじゃが、この娘が働いてから、何十円か、金、送っ
てきたゆうて、はぇ、村中、えらい評判立ったんじゃ。(略)

うちはその話きいてからの、(略)「日本の国、行かして下さい、日本の国行くんじゃ」
なんぼ、頼んで泣いても、お父さん、きかんのじゃ。
★「とんでもないこと言いだしおる! 女がよその土地、出かせぎに行くのは賎民らのす
ることじゃ…」言うて、はぇ、頭っからきいてくれんのよ。…うちは、村でもの、大けな
家じゃったけえ、瓦屋根の、両班じゃったけえ、まあ、喰うに困る暮らしじゃないしのう、
なんぼ頼んでも、行かしてくれんのよ。 

 あれが、うちが14のときよ。一つ上のいとこの姉さんがの、日本行って帰ってきた人
に嫁入りしたんじゃ。それが、こんど日本いっしょに行くんじゃ言うての、挨拶しにきた
んじゃ。…うちは姉さんがうらやましゅうてのう、うちもついて行きとうて、かなわんの
よ。家の門まで見送り出たのが、はぇ、村の外までついて言ってからの、うちが泣いて、
泣いて、どこまでもついて行きおるじゃけ、「いっしょに日本行くんじゃ」言うての。そ
れでとうとう、うちのお母さん、あきらめたのよ。「よろしゅうに頼みます」包みつくって。
 それで、いとこの姉さん夫婦について馬山から釜山に出ての、釜山の旅館、ひと晩泊ま
ったんじゃ。はぇ、釜山の町も旅館も、日本行く人らでものすごかったんじゃ。
★うちは、急にこうなったんじゃけ、証明書(渡航許可証明書)がないんよ。それが、旅
館で知りおうた女の人、30ぐらいのおばさんがひとりおったんじゃ。この人の娘じゃい
うて、連絡船乗ったんよ。(略)





●正論2003年6月号掲載  評論家 黄 文雄 
「誇り高き台湾少年工と『強制連行』どころか勝手に日本に殺到した朝鮮人の落差」






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