足利義満の野望 ★ 貿易のために明への臣従外交を行い、皇位簒奪まで図った野望家。

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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望

 貿易のために明への臣従外交を行い、皇位簒奪まで図った野望家。
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■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」

 東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。

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室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

 室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収していき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
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 この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。

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足利義満(1358~1408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りました。[1,p71]
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 そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から、後醍醐天皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ。南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したものだった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。


■2.「臣下として屈従する姿勢」

 自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収して統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。

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 他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。[2,p95]
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 冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。

 同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明する。

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 明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のためには、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。義満は明の皇帝にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任命された。

「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもので、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]
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■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」

 義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。

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 応永(JOG注: 1394~1427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。[3,p379]
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 義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした。「朕大位を嗣ぐより、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。

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 これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG注: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求めた文書である。

この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘するところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。[3,p381]
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■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交

 義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したものであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。

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 こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったときと同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。起草者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]
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「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交を指す[4,p78]。聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]

 義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにするものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。


■5.「公武を統合した日本全体の代表者」

 村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。

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 その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していたからであった。[4,266]
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「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍とともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。

 たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。その日、義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。

 18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢さを義満は恥じなかった。


■6.皇位の簒奪まであと一歩

 村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していた」という点は、次のような事実から窺える。

 北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位したがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振る舞いをした。

 後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であったらしい。しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとりあげ、南北朝の合一を実現した。

 応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」にするという詔書を貰っている。妻が天皇の母代わりになれば、その夫である自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

 義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもとに、親王と同じ次第で元服式を行った。そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。

 ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるまで、あと一歩であった。そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。

 しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を引いている、という自負があったようだ。母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。男系の女子なら皇位についた前例があるが、女系では皇位につけない。[c]

 女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。義満はそうと知っていても、自らの野望を実現するために、それを無視したのだろう。


■7.義満の死による「天佑神助」

 ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が急に咳(せ)き込み、発病したのである。そして10日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。

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 これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで偶然だろう。いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩というところで実現せずに終わったのである。
・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。

 清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]
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 もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまっていた。そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。

 しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。

 権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。


■8.反面教師・義満

 義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満は法皇そのものの称号を贈られたのである。

 しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち)は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。将軍でありながら、公家も牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。

 義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。

 しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。

 将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争いを繰り広げるようになる。播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上で暗殺するという事件を起こした。この後、足利将軍家は形だけの存在となり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。

 以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この二つは、わが国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師なのである。

 東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
(文責:伊勢雅臣)

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■リンク■

a. JOG(938) 歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html

b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html

c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
 我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog416.html


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1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27

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3. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
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4. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48

5. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇」★★★、H22
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■前号「「在日特権」という不幸」に寄せられたおたより

■在日の問題は部落の問題と根は一つ(博美さんより)

 今回の在日特権の話ですが、実のところ、全く同じことを部落解放同盟も起こしており、根っ子の部分は全く同じです。解同の構成員が在日なのですから。

 戦後の部落は朝鮮部落であり、在日の問題と同じ問題です。ちなみに私の住む滋賀県の草津市では生活保護の支給どころか住宅まで無償で供給してます。もちろん光熱費なども税金から出してました。

 過去形なのは、そういう地域から、少しずつですが在日の方が出ていって通常の街になっていっているからです。

 真面目に生活する在日の方は、そのような暮らしをすると、逆に差別されると解っておられるからでしょう。

■編集長・伊勢雅臣より

 在日や部落という立場に安住しないで、日本国民として真面目に生活する人々が増えているのは、好ましいことですね。


■前々号「ウズベキスタンの桜」に寄せられたお便り

■ご遺骨の帰還を(夏目壽さんより)

 今回も読んでいて本当に胸が熱くなりました。

 70年前の大東亜戦争に負けたことにより米国により「日本は悪い国だ」と洗脳され今に到っています。戦争が終了し祖国に帰れると思っていたのが捕虜として抑留され今の世の中では考えられないような凄絶な状況で労働を強いられたと思います。

 そんな環境の中でも我々の先人たちは精一杯その地域の為に後世に語り継がれることをされたのほんとうにすごいことだと思いますし誇りに思います。

 また中山恭子さんが大使だったのも良かったと思います。

 このように戦地で散華された人たちがまだ約110万柱あると聞きます。今の日本があるのはこの方々のお陰であります。一刻も早く祖国に還れるようにすることが我々の責務ではないかと思います。

■伊勢雅臣より

 ご遺骨の帰還作業は、先人の思いを受け継ぐ大切な営みですね。


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