キリシタン宣教師の野望…キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とすることを、神への奉仕と考えた。

キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とすることを、
神への奉仕と考えた。


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■1.日本布教は最も重要な事業のひとつ■

 イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
は日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けでマカ
オからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のよう
な手紙を出した。

 私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、
神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言す
ることができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能に
して、理性によく従うからである。

 尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不
向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中
で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何
もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練
を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。

 しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思ってい
ることのために、日本は時とともに、非常に益することに
なるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。
[1,p83]

 「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、ス
ペイン国王によるシナの植民地化である。日本は豊かでなく、
強すぎるので征服の対象としては不向きだが、その武力はシナ
征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要があ
る、というのである。

■2.シナ征服の6つの利益■

 スペインの勢力はアメリカ大陸を経て、16世紀半ばには太
平洋を横断してフィリピンに達し、そこを足場にしてシナを始
めとする極東各地に対し、積極的な貿易と布教を行っていた。

 宣教師達はその後もスペイン国王にシナ征服の献策を続ける。
1570年から81年まで、10年以上も日本に留まってイエズス会
日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、1584年6月2
7日付けで、スペイン国王あてに、シナ征服には次の6つの利
益があると説いている。

 第1に、シナ人全体をキリスト教徒に改宗させる事は、主へ
の大きな奉仕であり、第2にそれによって全世界的に陛下の名
誉が高揚される。第3に、シナとの自由な貿易により王国に多
額の利益がもたらされ、第4にその関税により王室への莫大な
収入をあげることができる。第5に、シナの厖大な財宝を手に
入れる事ができ、第6にそれを用いて、すべての敵をうち破り
短期間で世界の帝王となることができよう、と。

 このようにスペイン帝国主義と、イエズス会の布教活動とは、
車の両輪として聖俗両面での世界征服をめざしていた。

■3.日本人キリスト教徒の「ご奉公」■

 さらにカブラルはシナ人が逸楽にふけり、臆病であるので征
服は容易であると述べ、その例証に、13人の日本人がマカオ
に渡来した時に、2~3千人のシナ人に包囲されたが、その囲
みを破り、シナ人の船を奪って脱出した事件があり、その際に
多数のシナ人が殺されたが、日本人は一人も殺されなかった事
件をあげている。

 私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃
至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分
であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパード
レ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を
送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍して
いるので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1
エスクード半または2エスクードの給料で、暿暿としてこ
の征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。
[1,p95]

 日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長は、日本
人を傭兵の如くに見ていたのである。

■4.人類の救済者■

 宣教師は教会のほか、学校や病院、孤児院を立てた。地
球が球形であることを伝え、一夫一妻制を守りるよう説い
た。これらにより、キリスト教の信者が西日本を中心に増
えた。この当時、キリスト教とその信者をキリシタンとい
った。[2,p117]

 中学歴史教科書の一節である。同じページにはザビエルの肖
像画があり、そこに記されたIHSという文字について、「イ
エズス会の標識で『耶蘇、人類の救済者』の略字」と説明され
る。キリシタン宣教師達は、まさに未開の民に科学と道徳を教
え、社会事業を進める「救済者」として描かれている。

 数ページ後には家康によるキリシタン弾圧が次のように描か
れている。

 家康は貿易のために、はじめキリシタンを黙認していた
が、やがて禁教の方針をとった。信者に信仰を捨てるよう
に命じ、従わない者は死刑にした。[1,p130]

 さらに家光が、「キリシタンを密告した者に賞金を出すなど
して、キリシタンを完全になくさせようとした」事を述べ、厳
しいキリシタン取り締まりに島原・天草で約4万人の農民が一
揆を起こして、「全滅」した事を述べている。

 この教科書を読んだ中学生は、「救済者」達に対するなんと
野蛮な宗教弾圧かと思うであろう。しかし、なぜ家康は黙認か
ら禁教へと方針を変えたのか、については一言も説明がない。
秀吉も同様に、初めのうちはキリシタンを奨励していたのに、
急に宣教師追放令を出している。いずれもキリシタン勢力から
国の独立を守ろうとする秀吉や家康の防衛政策なのである。

■5.日本準管区長コエリョの秀吉への申し出■

 キリシタン宣教師の中で、イエズス会日本準管区長ガスパ
ル・コエリョは、最も行動的であった。当時の日本は準管区で
あったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任
者にあたる。

 天正13(1585)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であ
った豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。その際に、大友宗麟、
有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方
させようと約束した。さらに秀吉が「日本を平定した後は、シ
ナに渡るつもりだ」と述べると、その時には2艘の船を提供し
よう、と申し出た。当時、日本には外航用の大艦を作る技術は
なかったのである。

 秀吉は、表面はコエリョの申し出に満足したように見せかけ
ながらも、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、メキ
シコやフィリピンのように、我が国を侵略する野望を持ってい
るのではないかと疑い始めた。

■6.コエリョの画策とバテレン追放令■

 翌々年、天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために博多に
下ると、コエリョは自ら作らせた平底の軍艦に乗って、大提督
のような格好をして出迎えた。日本にはまったくない軍艦なの
で、秀吉の軍をおおいに驚かせたという。

 その前に秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって無数
の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた
。秀吉は軍
事力を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が事実であると
確信し、その日のうちに宣教師追放令を出した。

 コエリョはただちに、有馬晴信のもとに走り、キリシタン大
名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。そして自分は
金と武器弾薬を提供すると約束し、軍需品を準備した。しかし、
この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。

 コエリョは次の策として、2,3百人のスペイン兵の派兵が
あれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れるとフィリ
ピンに要請したが、その能力がないと断られた。コエリョの集
めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知ら
れずに済んだ。[1,p109-114]

■7.秀吉のキリシタンとの対決■

 秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、最近では、ス
ペインやポルトガルのシナ征服への対抗策であったという説が
出されている。
スペインがメキシコやフィリピンのように明を
征服したら、その武力と大陸の経済力が結びついて、次は元寇
の時を上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくるだろう。

 そこで、はじめはコエリョの提案のように、スペインに船を
出させ、共同で明を征服して機先を制しよう、と考えた。しか
し、コエリョが逆に秀吉を恫喝するような態度に出たので、独
力での大陸征服に乗り出した。その際、シナ海を一気に渡る大
船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったのである。

 文禄3(1593)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに
手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指
下にある」と脅している。[
3,p372]

 慶長2(1597)年、秀吉は追放令に従わずに京都で布教活動を
行っていたフランシスコ会の宣教師と日本人信徒26名をわざ
わざ長崎に連れて行って処刑した。これはキリシタン勢力に対
するデモンストレーションであった。一方、イエズス会とマニ
ラ総督府も、すかさずこの26人を聖人にする、という対抗手
段をとった。丁々発止の外交戦である。

■8.天草をスペイン艦隊の基地に■

 全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、キ
リシタン勢力の中では、布教を成功させるためには軍事力に頼
るべきだという意見が強く訴えられるようになった。1590年か
ら1605年頃まで、15年間も日本にいたペドロ・デ・ラ・クル
スは、1599年2月25日付けで次のような手紙を、イエズス会
総会長に出している。要点のみを記すと、

 日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでも
しも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国
を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてそ
の内の一島、即ち下(JOG注:九州のこと)又は四国を包
囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海
上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の
生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろ
う。・・・

 このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と
協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るよ
うにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適し
ている。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り
囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好
な位置にある。・・・

 (日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設する
ことの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共
にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・多く
の日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイ
ン人の間で育てることになるだろう。・・・

 スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべ
きシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日
本から調達することが出来る。[1,p147-150]

 キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そ
こを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、
というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進
めてきた常套手段であった。

 また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をイエズス
会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が入るだけでクルス
の計画は実現する。秀吉はこの前年に亡くなっており、キリシ
タンとの戦いは、徳川家康に引き継がれた。

■9.国家の独立を守る戦い■

 家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリ
シタンびいきで、大阪城にこもって、スペインの支援を受けて
徳川と戦うという事態であった。当時の大阪城内には、宣教師
までいた。大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、
キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放して
いる。

 1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じ、さらに1637
~38年のキリシタン勢力による島原の乱をようやく平定した翌
39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。これは鎖国と言うより、
朝鮮やオランダとの通商はその後も続けられたので、正確には
キリシタン勢力との絶縁と言うべきである。[4]

 キリシタン宣教師達にとっては、学校や病院、孤児院を立て
ることと、日本やシナを軍事征服し、神社仏閣を破壊して唯一
絶対のキリスト教を広めることは、ともに「人類の救済者」
としての疑いのない「善行」であった。その独善性を見破った
秀吉や家康の反キリシタン政策は、国家の独立を守る戦いだっ
た。これが成功したからこそ、我が国はメキシコやフィリピン
のように、スペインの植民地とならずに済んだのである。









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