キリシタン宣教師、日本侵略の野望…日本人を奴隷として外国に売り飛ばしていた宣教師たち…彼らの野望を見抜いた信長、秀吉、家康の戦い


「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代

安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。
ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、
東大史料編纂へんさん所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。
審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、
「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、
いずれも男性とみられる。
ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、
奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、
料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。
ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。
ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。
次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに
移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。
ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。
その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。

(2013年5月13日14時44分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130513-OYT1T00675.htm?from=top




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■1.「盗賊にして何かを得んと欲するか」■

 天正8(1580)年、信長は安土城において、いつものように多
数の家臣たちを同席させて、宣教師オルガンチーノとその弟子
ロレンソ(琵琶法師から宣教師の弟子になった盲目の日本人)
と3時間にわたって宗教論議を楽しんだ。

 その後、信長は二人を別室に招いた。そこには、以前、宣教
師から献上された地球儀があった。信長はオルガンチーノに乞
うて、ヨーロッパから日本に至る道程を地球儀の上で示させた
上で、「此(これ)の如き旅行は大なる勇気と強き心ある者に
あらざれば実行すること能(あた)わず」と称賛し、笑いなが
ら、こう述べた。

 汝らが此の如く多数の危険と海洋を超えるは、或(ある
い)は盗賊にして何かを得んと欲するか、或は説かんとす
る所重要なるに因(よ)れるか。

(あなた方がかくの如き多くの危険と海洋を超えて日本に
やって来たのは、盗賊として何かを得ようとするためか、
あるいは説こうとする教義がよほど重要であるからか。)

■2.「我らは盗賊にして」■

 信長は記録に残っているだけでも永禄12(1569)年のフロイ
スとの最初の会見以来、他の宣教師も含めて、14年間で31
回以上の会見を行っている。そして彼らの説くキリスト教の教
義や科学知識に興味を持ち、彼らと議論をすることを好んだ。
しかし、信長は宣教師たちが熱心に勧めるキリスト教に帰依す
ることはついになかった。

 キリシタンたちは何のためにはるばる地球の裏側から、危険
を冒し、万里の波濤を超えて、日本にやってきたのか。純粋な
布教目的だけで、そこまでするだろうか。「盗賊にして何かを
得んと欲するか」と疑うのは、戦国時代を戦い抜いた武将とし
て当然の防衛本能であろう。

 信長の疑念に、オルガンチーノはこう答えた。

 ご尤(もっと)もである。何故なら、我らは盗賊にして
日本人の魂と心を悪魔の手より奪ひて其(その)造主(つ
くりぬし)の手に渡さんが為に来れるなり。

(そう言われるのは、ごもっともである。何故なら、我
われは盗賊にして、日本人の魂と心を悪魔の手から奪い
取って、その造物主の手に渡すために来たからである。)

 冗談めかして「盗賊」に喩える信長と、それに巧みに応じた
オルガンチーノとの間には、冷たい火花が飛び交っていた。

■3.ポルトガルの野望■

 1411年、ポルトガルはイスラム勢力下にあったアフリカ北岸
の商業都市セウタを陥落させた。ローマ教皇はこれを称賛し、
この地をキリスト教騎士団の所領としてポルトガルに与えた。

 当時、地中海からペルシャ湾を経てインド洋に至る海域はイ
スラム帝国オスマン=トルコが支配し、インドや東南アジアと
の交易を独占していた。

 ポルトガルはアフリカ大陸を迂回してアジアに至る交易ルー
トを開拓することによって、オスマン=トルコの独占していた
莫大な利益を奪おうとした。そこでセウタの所領から上がる潤
沢な収益を使って、造船技術者、天文学者、地図制作者などを
高給で雇い、海洋航海術を研究させて、大航海事業に乗り出し
たのである。[a]

 ポルトガルはアフリカ西海岸および沿岸諸島を次々と攻略し
ていったが、そこでの特権は1455年、ローマ教皇ニコラウス5
世の勅書によって認められた。その勅書は、征服した土地の所
有を認め、そこで法律を作り、税金を課し、「修道院、教会な
どの宗教施設を建てることができ」「非キリスト教徒を永久に
奴隷状態におくことができる」として、植民地支配することを
教皇の権威によって正当化したのである。

 1488年、ポルトガルの探検家バーソロミュ=ディアスがアフ
リカの最南端に到達し、それまで「嵐の岬」と呼ばれていたこ
の地を「希望(喜望)峰」と改めた。その「希望」とは、ここ
から臨むインドから東南アジアなどの異教徒の土地をキリスト
教化して、その豊かな物産を神の名において獲得することであっ
た。「希望」というより「野望」と言うべきだろう。

■4.東アジア争奪戦■

 一方、スペインは大西洋を横断して西回りにアジアに至ろう
と、コロンブスの船団を派遣し、アメリカ大陸を発見していた。
東回りのポルトガルと、西回りのスペインが競合したので、ロ
ーマ教皇は地球を二分割して両国に支配を許す勅許を与えた。
しかし、その解釈上の問題で、地球の反対側の地域では両方の
勢力圏が重なりあう部分ができてしまった。そこにたまたま日
本が入っていたのである。

 日本に最初に到達したのは、天文18(1549)年のポルトガル
の宣教師フランシスコ=ザビエルであった。ザビエルは、日本
を強力なキリスト教国家にしてポルトガルの支配下に置こうと
した。

 一方、スペインは1565年にフィリピンのルソン島を実力支配
し、そこから中国、日本に触手を伸ばそうとしていた。ポルト
ガルの宣教師たちは、スペイン勢力がやってくる前に、是が非
でも日本を植民地化しようと、信長に近づいていたのであった。

■5.長崎に誕生したキリスト教王国■

 ザビエルが日本での布教を開始して13年、永禄5(1562)年、
肥前西部(長崎県)の大名・大村純忠は、宣教師トルレスの強
い説得に応じて、自領内の横瀬浦を貿易港として開港し、港と
その周囲半径10キロメートルの土地をイエズス会領として寄
進した。またこの地に入港してくるポルトガル商人と、各地か
ら集まってくる日本商人に対して、10年間、一切の税を免除
する事を決定した。

 フロイスの『日本史』によれば、博多や山口、さらには京都
からも大勢の日本商人が交易を求めてやってくるようになり、
横瀬浦は貿易港として急速に発展した。

 大村純忠は、この地に仏教徒が住むことを禁止し、自らもキ
リスト教に入信して、トルレスから「ドン=バルトロメウ」と
いう洗礼名を授けられた。以後、家臣や住民にも洗礼を受ける
者が続出し、横瀬浦と純忠の本拠地・大村(長崎県大村市)の
領地で12百余名のキリシタンが生まれた。純忠が戦いに臨む
際には、陣羽織には「JESUS(イエス)」の文字を入れた
地球が描かれ、首には十字架のついた数珠を掛け、「聖なる十
字架」を描いた旗を高々と掲げた。まさに十字軍の騎士さなが
らの出で立ちであった。

 純忠は同時に仏門にも入ったが、宣教師コエリヨはこれを強
く非難し、神仏と決別する証として、領内からあらゆる偶像崇
拝を根絶し、一人の異教徒も住ませないよう強く迫った。純忠
はこれに従い、寺社の破壊焼失、僧侶を含む全住民への洗礼強
制、抵抗する僧侶の殺害、その他反対者の国外追放を強行した。



 この結果、領内では2万人の住民がキリスト教の洗礼を受け、
仏像仏閣がすべて破壊され、その後に教会と十字架が建てられ
た。小さな子どもまでも仏像の破壊に加わり、その顔に唾を吐
きかけたという。また『郷村記』は、猛り狂ったキリシタンた
ちによって純忠の養父・純前の墓が暴かれ、その骨は川に投げ
捨てられた、と記している。



■6.キリシタン大名への軍事援助■

 キリシタン大名を得るための方策として、交易による利潤の
他にもう一つの手段があった。軍事援助である。それを求めて、
宣教師との結びつきを深めたのが、大友宗麟(そうりん)であっ
た。

 宗麟は豊後(大分県南部)を治めていたが、日本に最初にキ
リスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルから直接、説教を受
けており、キリシタン大名の中でも最も早くキリスト教に接し
た人物である。

 永禄2(1559)年、宗麟は豊後の他に、豊前(大分県北部)、
筑前(福岡県北部)、筑後(同・南部)の4カ国の守護職とな
り、将軍・足利義輝から「九州探題」に任命されたため、宣教
師たちの期待も高かった。

 宗麟はキリスト教の保護者を持って任じ、宣教師たちの布教
活動を援助するとともに、その引き替えに軍事物資の提供を求
めた。永禄10(1567)年、宗麟はマカオに滞在していた司教に
あてて手紙を書き、中国地方を支配する毛利元就に打ち勝って、
キリスト教を広げたいので、鉄砲の火薬の原料となる硝石の日
本への輸入を禁止し、自分の領国にのみ販売するように依頼し
ている。

■7.長崎と茂木の軍事要塞化■

 天正7(1579)年に、東洋地域全域を所管する巡察師アレッサ
ンドロ・ヴァリニャーノが来日すると、その指導にとってキリ
シタン勢力が急伸した。

 大村純忠は、ヴァリニャーノの来日を機に、長崎(長崎港周
辺部)と茂木(長崎市茂木町)をイエズス会の永久教会領とし
て寄進した。

 ヴァリニャーノは翌天正8(1580)年に、この長崎と茂木の地
を、ポルトガル人を中心として軍事要塞化するように指示した。
これに従って数年後には、同地は大砲・鉄砲などにより武装さ
れ、軍艦も建造配備された。

 天正13(1585)年には、純忠の領土の全領民約6、7万人が
キリシタンとなり、ここに完全なキリシタン王国が誕生したの
である。

 大村純忠の縁戚で、島原を領有していた有馬晴信は、当時、
肥前東部(佐賀県)の龍造寺氏から度々攻撃を受けて、窮地に
陥っていた。晴信はヴァリニャーノから洗礼を受け、その見返
りとして、食糧不足に苦しんでいた4つの城で、多量の糧食と
金子(きんす)を受け取った。さらにマカオからやって来たポ
ルトガルの交易船から、弾丸に使う鉛や火薬の原料となる硝石
を送られた。こうした軍事援助で、晴信は龍造寺氏との戦いで
危機を脱することができた。

 晴信はこの返礼として、ヴァリニャーノが自領に滞在してい
た3ヶ月の間に、領内にあった40を超える神社や仏閣をすべ
て破壊し、領民2万人を入信させた。さらに浦上(長崎市浦上)
の地を、イエズス会の教会領として寄進した。

 宣教師たちは、これらのキリシタン大名を経済的軍事的に支
援する一方、毛利氏、龍造寺氏、島津氏など反キリスト教の大
名とは交易関係すら結ばなかった。

■8.「十字軍騎士」となったキリシタン大名■

 ヴァリニャーノは、キリシタン大名との政治的・軍事的連携
を強化する一方、布教体制の改革を進めた。セミナリオ(神学
校)、ノビシアド(修練院)、コレジオ(学院)の3種類の教
育機関を設け、日本人司祭の養成に努めた。

 天正10(1582)年頃には、西日本各地に設けられた教会堂の
数は大小合わせて200カ所、神父・神弟(日本人の伝道師)
は75人に上り、急速な布教が進められた。信者数は京都から
中国地方に2万5千人、大友宗麟の治める豊後で1万人、大村
純忠・有馬晴信が支配する大村・島原・長崎地域に11万5千
人、合計15万人ほどにも急増した。

 この年1月には、それぞれの教育機関で育成した日本人子弟
の中から優秀な4人の少年を選び出し、大村純忠・有馬晴信・
大友宗麟の3キリシタン大名の使節として、ローマ教皇とスペ
イン・ポルトガル連合国国王の許に派遣した。

 翌年2月に少年使節たちはローマで教皇グレゴリオ13世に
拝謁した。教皇が皇帝や国王を迎接する「帝王の間」で拝謁す
るという異例の栄誉を受け、3人のキリシタン大名からの親書
を手渡した。

 こうした儀式を通じて、キリシタン大名たちは、ローマ教皇
に忠誠を誓い、日本の「異教徒」と戦う「十字軍騎士」とされ
ていったのである。

■9.「我一生の不覚也」■

 信長が安土城で宣教師オルガンチーノと会見し、「盗賊にし
て何かを得んと欲するか」と聞いたのは、こういう状況下であっ
た。

 天下統一を目指す信長は、当時中国の毛利氏と戦っていたが、
その背後から九州探題・大友宗麟も中国を狙っていた。九州か
ら京都を目指すキリシタン勢力と、京都を押さえ中国・九州へ
と全国統一事業を進めつつあった信長とは、早晩対決が運命づ
けられていた。

『切支丹来朝實記』には、この頃の信長の心境をこう記してい
る。

 破天連方よりは便(たより)毎に今年は日本人何千人勤
め、今年は何万人勤め入ると臺帳に記(か)きて、南蛮へ
渡すとか。宣教師たちが貧民病者を慈しみ、尚(な)ほ此
等(これら)の妻子眷属に一人前金一銭づつを與(あた)
ふる等、弓矢を不用(もちいず)して日本を随(おと)さ
んとの謀事、然るに信長、南蛮寺の取沙汰、あやしき宗門
の様子及聞(ききおよんで)、心の内には後悔しけり。

(日本に駐在している宣教師からの報告で、今年は日本
人が何千人入信し、今年は何万人入信したかと、台帳に
記して、本国のポルトガルに送っているとのうわさ。宣
教師たちが貧しい者や病人を慈しみ哀れみ、それだけで
なく妻子眷属に一人当たりの前金として一銭ずつ与える
などして、弓矢を使わずに日本を征服しようと謀略を企
んでいること。このため信長はキリストの教会内の活動
や信者たちの怪しい所行について聞き及ぶ所があって、
内心では後悔していたのである。[1,p8])

 さら『實記』が伝える所によれば、信長は前田徳善院玄以と
いう仏僧に「自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊し
て宣教師たちを本国に返そうと思うが、どう思うか」と諮問し
たが、「もしそのようなことをすれば、たちまち一揆が起こる
ことは間違いありません」と答えたので、信長は今まで宣教師
たちを保護してきた政策について「我一生の不覚也」と漏らし
た。


  1. 椛島有三『織田信長の国家戦略』★★★、明成社、H17






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■1.信長の富国強兵策■

 ポルトガル・スペインが、マカオやフィリピンを植民地化し、
なおかつ宣教師たちが九州のキリシタン大名を交易や軍事援助
を通じて後押ししている様を見れば、彼らの最終的な狙いが日
本の植民地化にあることを信長は見通していたであろう。天下
統一を進める信長にとって、思わぬ伏兵がいたのである。彼ら
の布教を許したことを「我一生の不覚也」と言ったのは、この
故であった。

 しかし、そこは天才・信長。宣教師たちの野望を打ち砕くた
めの反撃を展開した。それは現代流に言えば富国強兵策であっ
た。

 当時、各地を支配する領主や貴族、寺社は、自領内において
商工業に携わる者には同業組合として「座」を組織させ、その
独占を認める代わりに、多額の上納金を徴収していた。また、
領内に多くの関所を設けて、物資の流通や人の往来に「関銭」
を課していた。たとえば琵琶湖から京都、大坂の淀川沿いのル
ートには6百カ所以上もの関所があったという。

 そこで信長は、こうした「座」や「関所」を撤廃し、自由競
争と効率的な流通を促進することによって、商工業の発展を加
速するという経済改革を断行した。特に「楽市楽座令」では、
低額の税金を払えば、誰でも一定区域内で自由に商工業を営め
るようにしたため、多くの優れた商工業者が信長の勢力圏に集
まり、経済が急速に発展した。

 この「楽市楽座」制は当時、ヨーロッパ各地で行われていた
商工業・交易流通振興策によく似ており、信長が宣教師たちか
ら仕入れた知識を活用したものではないか、という説がある。

■2.壮麗なる都市・安土■

 特に信長が本拠地とした安土城の城下町では、税金課役の免
除、往来の安全の保証など、様々な特典を与えたので、全国各
地から商工業者が集まって大変な賑わいを見せた。

 信長の政策を目の当たりにした宣教師フロイスは著書『日本
史』において、次のように記している。

 信長はあらゆる賦課、関銭や通行税を廃止し、おおいな
る寛大さで、すべてに自由を与えた。この好意は民衆の支
持を得て、一般の人々はますます彼に心をひかれ、彼を主
君にもつことを喜んだ。・・・

 信長は安土に一つの城と新しい町を建設したが、その規
模は日本最大のもので、位置の優れていること、住民が立
派であること、建築の壮大であること比類がない。一般住
民の住む山麓の町は、長さ5.5キロメートルに及び、道
路は広くまっすぐについていて町に美観を添え、5、6千
人の住民がある。安土から京都までの77キロメートルの
間は、平坦な道が作られ、道路の両側に木を植え、川には
非常に大きな橋が架けられた。

 信長は交易の振興策として、道路の拡張整備にも力を注いだ。
これは軍隊の移動や軍需物資の運搬を効率化する軍事戦略でも
あった。

■3.ヨーロッパを抜いた鉄砲技術■

 こうした「富国」政策からあがる潤沢な税収を用いて、信長
は「強兵」政策を実行した。その第一は、常時、戦闘可能な職
業軍人集団による「常備軍」を創設したことである。

 従来の戦国大名は農民を兵員としていたため、農繁期には戦
いが出来なかった。そこで信長は農民と兵員を完全に分けて、
常時戦闘ができる軍隊を作った。そして専業の職業軍人たちに
は、高度な武器を操るための訓練を施した。

 第2は新兵器の採用である。ポルトガル人が日本に火縄銃を
伝えたのは、天文12(1543)年だったが、それからわずか6年
後には信長は鉄砲5百挺を、近江の鉄砲鍛冶屋に生産させいる。

 しかも、銃の性能自体も格段に改良させた。ポルトガルの火
縄銃は雨に弱いという欠陥があったが、雨よけの付属装置が考
案されて、雨中でも射撃できるようになっていた。

 また弾丸の威力を増すために口径が広げられ、引き金の機構
を改良して、弾丸が発射されるまでの時間が短縮された。これ
により、騎馬武者など高速に移動する対象への命中率も向上し
た。

 命中精度も改善され、1580年代に信長が使用していた鉄砲は
100メートル以上の命中距離を誇っていた。ヨーロッパでは
半世紀後の30年戦争で用いられていた小銃の命中距離は50
メートルほどに過ぎなかった。

 装備された鉄砲の数も、ヨーロッパとは桁違いだった。天正
3(1575)年に武田軍の騎馬武者隊を撃破した鉄砲隊は、3千挺
もの規模だった。この12年後にフランスのアンリ4世の軍隊
が持っていたのは、25名の鉄砲隊と300名のピストル隊の
みであった


 しかも、鉄砲隊が3交替で次々と一斉射撃を行う戦法を開発
した。この一斉射撃法がヨーロッパで広く普及したのは、長篠
の戦いから半世紀も後のことであった。



■4.宣教師を驚嘆させた鉄製軍艦■

 天正6(1578)年には、信長軍は大阪の石山本願寺を海上封鎖
したが、その救援に来た毛利水軍を、大砲を搭載した鉄製軍艦
6艘で打ち破った。これは約2年間の研究開発の結果、建造さ
れたもので、全長26メートル、幅13メートル、海面からの
高さ5メートルの軍船であった。船腹から甲板上の矢倉まで鉄
板で装甲し、3門の大砲と、多数の大型鉄砲を備えていた。

 この鉄製軍艦を見た宣教師オルガンチーノは驚嘆して、つぎ
のような報告書をポルトガル本国に送っている。

 この船は、信長が伊勢の国で建造させた日本国中でもっ
とも大きく、また華麗な船で、わが王国ポルトガルの船に
似ている。私も行って実際に見てみたが、日本でこれほど
の船を造るということに驚いた。・・・

 船には大砲が3門、搭載されていたが、これを何処から
持ってきたのか、想像がつかない。というのは、われわれ
がこれまでに確認したところでは、日本では豊後の王(大
友氏)が鋳造させた数門の小さな砲を除いて他に大砲はな
いはずだからである。私は実際に行って、この大砲と仕掛
けを見てきたが、船にはその他に、精巧な大型の長銃が無
数に装備されていた。

 ヨーロッパにおいて鉄製の軍艦が初めて出現したのは、この
120年後であった。

 信長は「石山本願寺の戦い」に勝利して手に入れた大坂を
「国際貿易港」とすることを構想した。そこに強大な海軍を作
り、その武力を背景に国際貿易を発展させようとしていた。こ
れまた、スペインやポルトガルへの対抗策であった。

■5.信長のデモンストレーション■

 天正9(1580)年7月、信長は正親町(おおぎまち)天皇の勅
命をもって石山本願寺の平定に成功すると、翌年2月には畿内
および近隣の大名と武将を京都に招集し、駿馬を揃えて、天皇
のご臨席のもとに「馬揃えの儀(天覧観兵式)を盛大に挙行し
た。

 これは中世ヨーロッパの騎士団が国王を歓待するための行事
を日本流にアレンジしたものであった。この儀式には巡察使ヴァ
リニャーノやフロイスなどの宣教師たちも招待されていた。こ
の儀式は、天皇のもとで国家統一が進み、強力な「国軍」が誕
生しつつあることを、彼らに強く印象づけるデモンストレーショ
ンでもあった。

 同年夏には、ヴァリニャーノを安土城に招待した。夜になっ
て、安土城下の家臣や民衆を総動員して、盛大な盂蘭盆(うら
ぼん)行事を挙行した。安土城の天守閣や山腹のお寺に無数の
提灯を吊り下げ、堀には松明を掲げた多数の船が浮かんだ。提
灯や松明の火が空に照り映えて、琵琶湖の水面にも映り、ひと
きわ美しい眺めであった。さすがのヴァリニャーノも深く感嘆
した、とフロイスの『日本史』に記されている。

 信長は、自らの号令一下で、これだけの壮大な文化行事を遂
行できる民度の高い共同体を、キリスト教で切り崩せるか、と
ヴァリニャーノに問いかけたのであろう。

■6.信長の支那征服策■

 フロイスの『日本史』によると、天正10(1582)年、

 信長は、事実行われたように、都に赴(おもむ)くこと
を決め、同所から堺に前進し、毛利を平定し、日本66カ
国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を派遣して支那を
征服し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであっ
た。


  ポルトガルはかねてよりマカオを拠点として、当時弱体化し
つつあった明を植民地化する計画を持っていた。信長は、その
ようなポルトガルの野望を見通していただろう。もし、ポルト
ガルが中国を征服したら、その富と人民を使って、次には日本
を狙ってくる。座して第二の元寇を待つよりは、先手をとって
明を征服してしまおう、というのは、軍事戦略としても合理的
な発想である。



 交易面においても、当時はポルトガルやスペインの船がヨー
ロッパやアジアの物産を持ち込み、日本で漆器、刀剣、海産物、
銀などと交換するという一方的なものであった。彼らはそこか
ら上がる独占的な利益を使って、日本での布教活動を推進し、
キリシタン大名への後押しを行い、最終的には日本の植民地化
を狙っていた。

「楽市楽座」という優れた商工業振興策による税収で全国統一
事業を進めていた信長である。日本から積極的に海外貿易に乗
り出して、ポルトガル・スペインの利益独占を突き崩すことは、
彼らの日本植民地化の野望を阻止することにもつながると考え
たとしても不思議ではない。

 信長が宣教師たちに「支那征服」の意思をもらしたのは、ポ
ルトガル・スペインに対して、いよいよ攻勢に出るぞ、という
宣戦布告であった。

■7.「日本は征服が可能な国土ではない」■

 信長が支那征服の意思を表明した数ヶ月後、大村純忠・大友
宗麟・有馬晴信の少年使節を率いて、マカオに滞在していた巡
察使ヴァリニャーノは、スペインのフィリピン総督あての手紙
で次のように記している。

 日本は何らかの服従事業を企てる対象としては不向きで
ある。何故なら、国民は非常に勇敢で、しかもたえず軍事
訓練をつんでいるので、征服が可能な国土ではないからで
ある。


 すでに占領したフィリピンやマカオとは違って、当時のヨー
ロッパよりはるかに進んだ銃砲や鉄製軍艦を誇示する信長軍の
偉容に、武力では到底、この国を植民地化することはできない、
とヴァリニャーノは判断せざるをえなかった。

 一時は、キリスト教の広がりに危機感を覚えて、今までのキ
リシタン保護政策を「我一生の不覚也」と後悔した信長であっ
たが、富国強兵策を徹底し、強力な軍事力をアピールすること
で、彼らとの冷戦に勝利したのである。

■8.豊臣、徳川に引き継がれた冷戦■

 この手紙には、次のような続きが述べられている。

しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思ってい
ることのために、日本は時とともに、非常に益することに
なるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。

「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、スペ
イン国王による明の植民地化である。日本を植民地化する事は
諦めるが、今度は支那征服のために、キリシタン大名の軍事力
を使おう、というしたたかな戦略である。

 天正10(1582)年、信長が本能寺の変で倒れると、キリシタ
ンとの冷戦は、秀吉に引き継がれた。秀吉はスペイン・ポルト
ガルの支那植民地化計画に対して、当初は日本から兵を送るか
ら、共同で取り組もうと申し出たりしたが、相手側の警戒で実
現しなかった。その結果、単独で支那征服に乗り出したのが、
後の文禄・慶長の役での朝鮮出兵であった。


  
 さらに秀吉は九州平定の途上、宣教師たちがキリシタン大名を通じて、神社仏閣を破壊し、領民に信仰を強制し、かつその一部を奴隷として海外に売りさばいたりしている実態を知って激怒した。

天正15(1587)年に中国・九州平定が完了すると、直ちに「宣教師追放令」を出し、軍事要塞化されつつあった長崎を直轄地とした。これによって、宣教師たちの40余年に及ぶ日本植民地化の工作は水泡に帰したのであった。[a]



  秀吉の後を継いだ徳川幕府も、寛永14(1637)年から翌年に
かけてのキリシタン勢力による島原の乱[b]をようやく平定し
た後、寛永16(1639)年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。こ
れは「鎖国体制」と言うより、キリスト教布教をテコとして植
民地化を狙うポルトガル・スペイン勢力との絶縁、と言うべき
だろう。宗教を押し売りしないオランダとの交易は続けていた
のであるから。

■9.信長・秀吉・家康の功績■

 こうしてキリスト教布教をテコとして、日本の植民地化を狙っ
たポルトガルの野望は、信長・秀吉・家康の3人によって阻止
された。この国家的危機に際して、これらの英邁な武将が国家
統一事業を成し遂げた事は、まことに幸運であった。

 それ以前の戦国時代のように、群雄割拠のままであったら、
宣教師から軍事的・経済的な後押しを得たキリシタン大名が天
下統一を遂げた可能性もある。そうなると、彼らは自領で行っ
たように、日本全国で神社仏閣を破壊し、抵抗する神官僧侶を
殺害し、キリスト教を全国民に強制したであろう。皇室も廃絶
されていたろう。

 その結果、わが民族固有の言語も文化もほとんど忘れ去られ
ていたであろう。メキシコやフィリピンのように。[c]



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