武寧王 生誕伝説の島

雄略二年[458]「秋七月、百濟池津媛、違天皇將幸、婬於石川楯。【舊本云、石河股合首祖楯。】天皇大怒、詔大伴室屋大連、使來目部張夫婦四支於木、置假[广技]上、以火焼死。【百濟新撰云、己巳年[429]、蓋鹵王立。天皇遣阿禮奴跪、來索女郎。百濟装飾慕尼夫人女、曰適稽女郎。貢進於天皇。】」

雄略五年[461]「夏四月、百濟加須利君、【蓋鹵王也。】飛聞池津媛之所燔殺、【適稽女郎也】而籌議曰、昔貢女人爲采女。而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。乃告其弟軍君【昆支也】曰、汝宜往日本、以事天皇。軍君對曰、上君之命不可奉違。願賜君婦、而後奉遣。加須利君、即以孕婦嫁與軍君曰、我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、随至何處、速令送國。遂與辭訣、奉遣於朝。六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒。仍名此兒曰嶋君。於是、軍君即以一船、送嶋君於國。是爲武寧王。百濟人呼此嶋曰曰主嶋也。秋七月軍君入京。既而有五子。【百濟新撰云、辛丑年[461]、蓋鹵王遣弟昆支君、向大倭、侍天王。以脩兄王之好也。】」

「是歳、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除、而立嶋王。是爲武寧王。【百濟新撰云、末多王無道、暴虐百姓。國人共除。武寧王立。諱斯麻王。是[王昆]支王子之子。即末多王異母兄也。[王昆]支向倭。時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京。産於嶋。故因名焉。今各羅海中有主嶋。王所産嶋。故百濟人號爲主嶋。今案、嶋王是蓋鹵王之子也。末多王、是[王昆]支王之子也。此曰異母兄、未詳也。】」






鎮西町史(p284)
加唐島と武寧王

 『日本書紀』には、倭の五王の最後の武王、つまり雄略天皇の段に、鎮西町とかかわりがあるのではないかと考えられる記事がある。すなわち、雄略天皇五年の条の、百済の武寧王の出生にまつわる説話である。

 五世紀の半ば、百済は高句麗の圧迫を防ぐため、日本と同盟を結び、日本に人質を送っていた。ところが雄略天皇二年、人質であった池津媛は不義を犯したことをとがめられて処刑された。このことによって日本との関係にひびが入るのを恐れた百済の蓋鹵王(こうろおう)(加須利君かすりのきみ)は、その弟軍君(こにきし)(昆支こにき)を日本におくることにした。

そのとき、王は軍君の要望にこたえて側室の一人を与えたが、彼女はすでに懐妊し、産み月も近かった。王は、途中で男の子が生まれたなら、ただちにその子を送り返すようにといった。軍君が筑紫の各羅島(かからのしま)に到着したとき、側室は男児を産み落とした。島で生まれたので男児は「島君せまきし」と名づけられ、百済に送り返された。この男児は成人ののち王位を継ぎ、武寧王となった。それ故に百済の人は、各羅島を主島(にりむせま)とよんでいる、というものである。

 「各羅島」が果して現在のどの島なのか、確実なことはわからないが、当地方では江戸期ごろから加唐島であるといわれてきた。『日本書紀』の解説は、どれも鎮西町加唐島であろうとしている。

 四世紀から五世紀にかけて、日本はたびたび軍勢を朝鮮南部の弁韓(任那)に派遣して拠点を確保し、また、百済・新羅・高句麗に介入してこれらを勢力下におこうとした。そのための出航地がどこであったのか、『日本書紀』には書かれていない。しかし、当時の造船能力や航海技術を考えると、玄界灘を安全に渡海できるところは、鎮西町をふくむ東松浦半島であったと考えられる。とくに波戸岬の目の前には加部島(かべしま)・加唐島・松島が、少し離れて小川島・馬渡島(まだらしま)が点在して、外海の荒波をさける格好の船泊りである。また、海上安全の守護神とされる湍津姫(たぎつひめ)・田心姫(たごりひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女神を祭る田島神社が加部島に鎮座しているのも、古代における朝鮮との通交を考えると肯定できる。

 武寧王を葬った墓陵は、1971年(昭和46年)忠清北道公州市宋山里で発見された。多数の副葬品とともに墓誌が発見され、武寧王とその王妃の合葬陵であることが確認された。ちなみに、墓誌によれば、武寧王は462年に生まれ、523年(継体天皇17年)に亡くなった。







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