【在日朝鮮人問題】日本統治下朝鮮から「内地密航」した朝鮮人達は戦後何をしたか


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韓国で、慰安婦問題同様に広がりを見せつつある強制連行問題。しかし、その実態は、朝鮮から日本への密航の歴史だった。

日中戦争に突入し、1939年7月に施行された『国民徴用令』は、朝鮮人のみに限らず、日本国民全般を対象としたものであった。しかし、朝鮮への適用はできる限り差し控えられ、1944年9月にようやく、朝鮮から内地へ送り出される労務員について実施されている。

いわゆる朝鮮人徴用労務員が日本へ導入されたのは、1944年9月から1945年3月までの短期間だ。これは1945年3月以後、アメリカ軍の攻勢により下関―釜山間の通常運航が杜絶したため、実施が事実上困難となったためだ。

終戦後、在日朝鮮人の約75%が朝鮮に引き揚げたが、その帰還状況を段階的に見ると次の通りだ。

1. 1945年8月から1946年3月までのあいだに、帰国を希望する朝鮮人は、日本政府の配船によって、約90万人、個別的引き揚げで約50万人の合計約140万人が朝鮮へ引き揚げた。引き揚げに当たっては、復員軍人、軍属および動員労務員などは特に優先的便宜が与えられている。

2. 日本政府は、連合国最高司令官の指令に基づき、1946年3月には残留朝鮮人全員約65万人について帰還希望者の有無を調査し、その結果、帰還希望者は約50万人ということになったが、実際の引き揚げ者はその約16%、約8万人にすぎず、残りは自ら日本に残る道を選んだ。

3. 1946年3月の米ソ協定に基づき、1947年3月、連合国最高司令官の指令により、北朝鮮引き揚げ計画が立てられ、約1万人が申し込んだが、実際に北朝鮮へ帰還した人は350人にすぎなかった。

こうして韓国や北朝鮮へ帰国せず、自からの意思で日本に残った人の大部分は、早くから来日して生活基盤を築いていた人々だ。つまり成功者である。戦時中に渡来した労務員や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残ったものは極めて少数派だった。

ちなみに終戦後の1947年に密航船で入国した『ソフトバンク』孫正義氏の祖父や父の孫一族や、パチンコ最大手『マルハン』の韓昌祐会長は、「韓国にいても稼げないので密航した」と2005年のテレビ番組で発言しているし、作家のキム・ギルホ氏は「1973年、食べていくために日本行きの密航船に乗った」と証言している。

1970年代に入ってキム氏のような才能のある人さえ「食えなかった」のは“日帝支配”の責任というのだろうか?


https://myjitsu.jp/archives/21967






韓国の『対日抗争期強制動員被害者連合会』(日帝強占期被害者全国遺族連合会)という団体が、ソウルと釜山、光州に『徴用工像』を設置しようとしている。

徴用工像とは、日本の朝鮮統治時代、労働者として強制連行されたという“不幸の像”のことだ。

しかし、当時の朝鮮総督府は、1922年12月5日に『府令第153号』を出し、渡航制限制度を撤廃している。それでも、韓国から日本への密入国が殺到したことから、朝鮮総督府と日本の警備当局が協議し、再度の渡日制限を敷いた。働けば対価が自分のものになる“夢の国・日本”を朝鮮の人々は目指したのだ。

1925年の在日朝鮮人は13万人弱だったのに対し、1933年には46万人にまで増加した。1930年代に入って密航は激増し、毎日のように摘発されるようになった。

このため、1934年の岡田啓介内閣は、朝鮮人の密航の取り締まりを強化するために、『朝鮮人移住対策ノ件』を閣議決定した。それでも密航は止まらなかった。日中戦争に突入後の1938年4月、国家総動員法が成立し、翌年の7月『国民徴用令』が施行されたが、それは内地の日本人に対してであり、朝鮮には適用されなかった。財閥など内地企業が自由に朝鮮人労働者を募集できるようになったのは、そののちのことで、これを“統制募集”と言う。

しかし、“内鮮一体”のスローガンの下で、朝鮮人の渡日取締撤廃と規制緩和を要求する声はしだいに大きくなり、こうしたことから1934~1937年までの渡日者数は10万人を超えるようになった。

最終的には210万人にまで増加

「1942年2月からは、朝鮮人に対して『官斡旋』が始まったのは事実ですが、これは強制ではなく、斡旋に応じるか否かは自由、日本での転職も自由でした。朝鮮に、日本人と同じ徴用令が適用されたのは1944年9月からですが、日本と朝鮮間の航路は危険水域を通過するため、この徴用令による人的な流通はそれほどでもなかったのです」(日本の朝鮮統治研究家)

不法密航を含めた渡日は増え続け、1940年に渡日した朝鮮人は119万人、1945年には210万人と急増していく。こうした密航朝鮮人のなかには、旅費負担や高賃金などを謳った甘言募集に乗せられ、低賃金の中で宿代や食費などさまざまな名目で天引きされ、実際に自由に使える金はほとんどなかったという人がいたのも事実だろう。

しかし、戦中の朝鮮人鉱夫が高待遇で雇用されていたことは、日本が“強制連行”を行ったと追及する朝日新聞でさえ報じていることなのだ。


https://myjitsu.jp/archives/21966





■大阪府が1932年に「なぜ内地に来たのか」在日朝鮮人に調査、7割以上の同胞が「食えないから」日本に来たと答えた■

大阪ではいまでも、在日朝鮮人が多く居住しているところ。植民地統治下の1930年(昭和5年)には在日同胞の約23%にあたる7万人が住んでいた。

大阪府が1932年に、大阪市内に一戸を構えている朝鮮人の調査をしたが、「なぜ内地に来たのか」という質問に、 「農業不振のため」との答えが、55.7%、「生活難のため」(17.2%)を加えると、7割以上の同胞が、「食えないから」、日本に来たと答えた という。

朝鮮新報 2015.01.23
http://chosonsinbo.com/jp/2015/01/sk123-6/






■朝鮮半島の朝鮮人にとって、戦前から、日本は憧れの地だった■

『もうひとつのヒロシマ』 朴 壽南 1983 (「アリランのうた」制作委員会)からの引用
同書はマスコミがよくとりあげる「朝鮮人被爆者の証言集」ですが、その中には彼らの本音も 「削除」されずに収録されています。

●M・Kさんの証言 【1967年記録、当時64歳女性】

 14のときよ、うちが日本、来たのは。紡績工場、働きに来たんじゃけ、あのとき、年ひとつ足りんのよ。15じゃいうて姫路の紡績工場、働きにはいったんじゃ。  大けな工場でのう、朝鮮の娘、300人ぐらいおったよ。寮二つに、いっぱいじゃった。

 うちは自分の自由で、自分から望んで、ムリヤリ、日本、来たんじゃ。家出するみたい に、来たんじゃ…。はぇ、日本、いきたいてのう、ものすごく日本ええところじゃ思うて、 いきたいんよ。日本の話、きいたら、はぇ、胸がトクン、トクン鳴るんよ。(略)

 あの時分は、日本行ってから、金もうけて帰った人らの話が、村の誰が日本いって、なんぼ金もうけて帰ってきた、借金返して、流れた田んぼ買うたとか、牛買うた、そんな話 が、あっちでもこっちでも持ちきりじゃったよ。
 はぇ、いなかの村で、はだか足で百姓しとったもんがの、日本行って帰ってくるときは の、西洋帽子、頭のせて、洋服きて、はぇ、皮靴(ママ)はいて、村帰ってくるじゃけえ、日 本の国、黄金ナラみたい思うたんじゃ。
 おお、日本、開明(文明開化)ナラじゃ、電気明るいし、男も女でも働いたら、働く分、 金になるんじゃ、なんぼでも金もうけでける国じゃ、そんな話、きくのよ。

●三年働いたら、嫁入り支度してからの、ふとん皮やら布地、行李二つ故郷送ったら、現 金が60円残ったよ。それで故郷に帰った。
 五月じゃったか、村の人ら田植えしとる道、うちが、こう人絹の白いパラソルさしての、 水色のチョゴリ着て、こうひざ下の短いチマはいて歩くとの、革靴が鳴るんじゃ。それか ら、はやりの大けなバスケットさげてから、村の道通ったら、はぇ、口がわるいんじゃ。 「日本がえりじゃ、日本がえりが通るよ」いうて、みんなぁ指さしてみるんよ。
 この年の秋に、おなじ村におった人のところ嫁入りして、夫婦いっしょにまた、日本き たんじゃ。(略)






★証明書を偽造して、日本へ働きに行きました。

●三年働いたら、嫁入り支度してからの、ふとん皮やら布地、行李二つ故郷送ったら、現 金が60円残ったよ。それで故郷に帰った。  五月じゃったか、村の人ら田植えしとる道、うちが、こう人絹の白いパラソルさしての、 水色のチョゴリ着て、こうひざ下の短いチマはいて歩くとの、革靴が鳴るんじゃ。それか ら、はやりの大けなバスケットさげてから、村の道通ったら、はぇ、口がわるいんじゃ。
「日本がえりじゃ、日本がえりが通るよ」いうて、みんなぁ指さしてみるんよ。  この年の秋に、おなじ村におった人のところ嫁入りして、夫婦いっしょにまた、日本き たんじゃ。(略)


●うちが、13の春じゃった。となりの村、15になる娘がおったんじゃ、これ、募集屋 来てからの、紡績工場連れていったんじゃが、この娘が働いてから、何十円か、金、送っ てきたゆうて、はぇ、村中、えらい評判立ったんじゃ。(略)

うちはその話きいてからの、(略)「日本の国、行かして下さい、日本の国行くんじゃ」 なんぼ、頼んで泣いても、お父さん、きかんのじゃ。
★「とんでもないこと言いだしおる! 女がよその土地、出かせぎに行くのは賎民らのす ることじゃ…」言うて、はぇ、頭っからきいてくれんのよ。…うちは、村でもの、大けな 家じゃったけえ、瓦屋根の、両班じゃったけえ、まあ、喰うに困る暮らしじゃないしのう、
なんぼ頼んでも、行かしてくれんのよ。 

 あれが、うちが14のときよ。一つ上のいとこの姉さんがの、日本行って帰ってきた人 に嫁入りしたんじゃ。それが、こんど日本いっしょに行くんじゃ言うての、挨拶しにきた んじゃ。…うちは姉さんがうらやましゅうてのう、うちもついて行きとうて、かなわんの
よ。家の門まで見送り出たのが、はぇ、村の外までついて言ってからの、うちが泣いて、 泣いて、どこまでもついて行きおるじゃけ、「いっしょに日本行くんじゃ」言うての。そ れでとうとう、うちのお母さん、あきらめたのよ。「よろしゅうに頼みます」包みつくって。
 それで、いとこの姉さん夫婦について馬山から釜山に出ての、釜山の旅館、ひと晩泊ま ったんじゃ。はぇ、釜山の町も旅館も、日本行く人らでものすごかったんじゃ。

★うちは、急にこうなったんじゃけ、証明書(渡航許可証明書)がないんよ。それが、旅 館で知りおうた女の人、30ぐらいのおばさんがひとりおったんじゃ。この人の娘じゃい うて、連絡船乗ったんよ。(略)



■川崎在日コリアン生活文化資料館  在日一世からの聞き書き〈田舎の生活を免れるために渡日を望む〉

うちは百姓だったから、畑行って草とったりやってたのですよ。熱いときとか大変でね。
「こんな仕事嫌だよ。日本に行きたいよ。」と言っていました(笑)
募集があったときに「行くんだ。行くんだ。」って行ってね。それで試験に通ったのです。

おばが日本の新宿にいるわけよ。暮らしがよかったからよくいろんなもの送ってくれたの。
そういうの見てから、「日本はやっぱりいいんだ、日本はいいんだ」って思ったのよ。
私も日本へ行ってみたいなぁって気になって。
ちょうどおばさんが帰ってきて、たまたまそういう話(縁談)もちだしたから 親が「おまえ、日本行くか」って聞くから、「うん、日本行く」って喜んで乗り気になっちゃって。
私の生まれた田舎の家へ行ったんです。それで行ったら、やっぱり日本へ行って良かったなと思いました。



■強制連行は真っ赤な【嘘】>在日朝鮮人、戦時徴用はわずか245人
http://www.youtube.com/watch?v=FJT5LE6REV0

在日朝鮮人、戦時徴用わずか245人
戦時中の徴用令によって日本に渡航し、昭和34年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、 当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だったことが10日、分かった。
自民党の高市早苗元沖縄・北方担当相の資料請求に対し、外務省が明らかにした。




戦前の新聞記事見出しより
『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30
『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3
『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3
『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29
『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日

1938/5/2 『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞

1938/5/21 『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24
『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26
『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1
『密航鮮人丗一名一網打尽に(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1938/12/17
『津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/12/20
『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21
『九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す(宗像郡岬村)』 福岡日日 1939/2/3
『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手』 呉日日

1939/2/12 『半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中』 中国日報 1939/2/13
『密航者丗八名八幡で捕はる(八幡市)』 福岡日日 1939/5/18
『密航半島人遠賀へ十九名(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1939/6/5
『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報

1939/6/20 夕『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版
『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30
『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14 夕






■終戦直後の僅かな期間の、在日朝鮮人が起こしてきたテロ、暴動、凶悪犯罪の一部です■ 
★(各事件の詳細は検索してください)

朴烈事件(大正12年): 民潭創設者・朴烈が起こした天皇暗殺未遂テロ

直江津駅リンチ殺人事件(昭和20年): 満員列車で起きた在日よる日本人リンチ殺害

大阿仁村事件(昭和20年): 在日鉱山労働者が栗林に無断侵入&警官と乱闘

生田警察署襲撃事件(昭和20,21年): 山口組成長のきっかけとなった在日による警察署占拠事件

首相官邸デモ事件(昭和21年): 生活物資の優先配給を求めた在日が暴徒化

坂町事件(昭和21年): 闇市の取締りに反発した在日による暴力事件

新潟日報社襲撃事件(昭和21年): 坂町事件の記事の撤回謝罪を要求した在日による暴行

富山駅前派出所襲撃事件(昭和21年): 犯罪人解放を狙った在日による警官襲撃

長崎警察署襲撃事件(昭和21年): 犯罪人釈放を目的とした在日集団テロ


富坂警察署襲撃事件(昭和21年): 犯罪人逃亡を企てた在日による警察署占拠

尾花沢派出所襲撃事件(昭和22年): 闇米を摘発された在日が派出所を襲う

阪神教育事件(昭和23年): GHQが戦後初めて非常事態宣言を布告した大規模テロ

評定河原事件(昭和23年): 北朝鮮国旗掲揚を巡った在日と米軍憲兵との乱闘

宇部事件(昭和23年): 山口県宇部市における在日による生活保護要求テロ

益田事件(昭和24年): 密輸入物資隠匿で摘発された在日を巡る襲撃テロ

枝川事件(昭和24年): 集団窃盗犯逮捕に絡んで起こった在日による警察官暴行拉致事件

高田ドブロク事件(昭和24年): 密造酒醸造犯による脅迫暴行デモ

本郷事件(昭和24年): 朝鮮人地区の地図作成に対する在日の集団暴行

下関事件(昭和24年): 韓国政府の在外国民登録に反発した在日が暴徒化

台東会館事件(昭和25年): 朝連解散&朝連会館接収を拒否した在日が起こした公安事件

連島町事件(昭和25年): 朝鮮解放5周年集会に集まった在日による暴動

長田区役所襲撃事件(昭和25年): 在日が生活保護を要求して襲撃

四日市事件(昭和26年): 朝連支部接収に反対した在日が起こしたバイオテロ

王子朝鮮人学校事件(昭和26年): 東京朝鮮学校による違法印刷物を巡った在日の暴動

神奈川事件(昭和26年): 神奈川県朝鮮人学校PTAによる暴力事件

下里村役場集団恐喝事件(昭和26年): 生活保護と強制送還阻止を求めた在日が村役場を占拠

東成警察署催涙ガス投擲事件(昭和26年): 警察が同胞を殺したとデマを流し暴徒化した在日によるテロ

軍需品製造工場襲撃事件(昭和26年): 東成署事件の追悼集会で在日が再び暴徒化

半田・一宮事件(昭和26年): 密造酒取締に抵抗した在日が警察署を占拠

日野事件(昭和26年): 在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊による違法デモ&暴動

万来町事件(昭和27年): 生活保護増額を却下された在日が集団で福祉事務所を襲撃

木造地区警察署襲撃事件(昭和27年): 日本共産党の指示で在日が起こした襲撃事件

姫路事件(昭和27年): 民潭と総連間の抗争事件

血のメーデー事件(昭和27年): 左翼団体と在日による皇居外苑における騒乱事件

上郡事件(昭和27年): 日本の公立学校入学を巡った在日の内ゲバ暴行事件

八坂神社事件(昭和27年): 在日デモ隊が大阪東成・八坂神社に無断侵入

宇治事件(昭和27年): 在日による複数の派出所占拠

多奈川町事件(昭和27年): 密造酒一斉摘発に抵抗した在日が集団暴徒化

田川事件(昭和27年): 日本人花見客と在日グループとの争いで死亡者が出た暴行事件

大村収容所事件(昭和27年): 韓国が強制送還引取拒否した在日犯罪者達が収容所内で暴徒化

広島地裁被疑者奪回事件(昭和27年): 裁判中に在日放火犯を奪還し逃走

桜井町事件(昭和27年): 旧朝連系在日よる民潭系在日への襲撃事件

奈良警察官宅襲撃事件(昭和27年): 桜井町事件検挙に反発した在日が警官宅を襲撃

高田事件(昭和27年): 旧朝連系在日による民潭&派出所襲撃事件









●「和夫一家殺害事件」キム・ソンス君の証言より● 「親日派のための弁明」の未翻訳部分

日韓併合時代、朝鮮に移り住んだ日本人の中には、明らかに立派な人々も多かった。
普段から人情に厚かった和夫は、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。
貧しい朝鮮の小作人が食べ物が無いと哀訴すると、喜んで食べ物を分け与え、 村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。
和夫は近くに行き場のない孤児がいると、連れ帰って面倒を見ていたがその数は一人、二人と増え、四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。
けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。
和夫の家族は、ふだん、このように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。
しかし彼らは、日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害された。

その日、和夫さんが実の子のように育て、東京帝国大学まで留学させていた朝鮮人Aを中心に、和夫さんの家で教育を受け、 成人するまで育ててもらった朝鮮人青年達が、カマとツルハシ、シャベルをもって、和夫さんのもとに押しかけた。

当時、現場にいたキム・ソンス君は、この時の状況をこう語っている。
和夫(優しい目で)「何故こんなことを、お前たち。」
朝鮮人A「チョッパリ!日本へ失せろ!失せろってんだ!!」
和夫:(わざと怒り声で)
「私が何かお前たちに間違った事をしたかい? 
お前たちは、みな私の子供達だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。
お前たちの祖国が独立する事は、私も日頃から強く望んできた事だ。
踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところにつめかけてきたんだ? 
私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。
(涙を流して)本当に悲しいよ、朝鮮の子供達。
私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合う事は出来無いということなのかい?
お前たちが望むんなら、帰ってやろう」
朝鮮人A 意味深長な目配せをBに送る。
(財産を全部処分して帰ったら、俺達はどうやって食ってくんだ?)
朝鮮人B「死ね!チョッパリ!!(日本人への蔑称)この糞野郎!!!」
次々にツルハシが和夫さんの後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルとカマが体をズタズタに引き裂き始めた。
和夫さんの妻は耐えられずに飛び出してきた。
それまでじっとしていた朝鮮人Cは、和夫さんの妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。
そして、なんとその和夫の孤児達13人は、一週間前まで「お母さん」と呼んでいた“彼女を強姦し始めた。
彼女はひどい集団強姦の途中で虐殺された。
朝鮮人Dは、普段、お母さんと呼んでいた彼女の“全身をめった刺し”にし、それでも足りずに“内臓をかき出して”撒き散らした。
和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた。
普段から模範的で良い子だった「ひみこ」は、学校が終わって家に戻り、両親に起きた“惨状を”見ると、気が触れてしまった。
当時、「ひみこ」の慟哭が何日も続き、近所の住民は眠れなかったという。

その後、孤児となった「ひみこ」は、食べ物乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした。
結局、「ひみこ」は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。
「ひみこ」は小学六年生だった。
和夫の財産は、和夫が精魂込めて大切に育てた朝鮮人孤児達(この恩知らずの鬼畜ども)の手に丸ごと渡り、この事件は、『村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られていった。









神戸は終戦直後には密入国してきた朝鮮人の暴動が頻発し「魔都」といわれた くらいの無法地帯だった。
警察が山口組の三代目に依頼して暴虐な朝鮮人をやっと押さえ込むことができたくらいだ。
山口組の三代目の伝記を読むと当時の朝鮮人の非道ぶりがわかる。


■ 飯干晃一 著「山口組三代目 田岡一雄自伝」(p194)(1971年初版 徳間書店)

▲昭和20年8月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。
人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
 一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。

「どないしたんや」

「おかあちゃんが、おかあちゃんが」 少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。

この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。

「ここにいるんやで。ええな」  私は少女をその場において一目散に走った。

少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。朝鮮人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。
女は狂ったように絶叫していた。

「汚ねえ・・・・」うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。



村田春樹は語る!敗戦後朝鮮人はなにをしたか
https://www.youtube.com/watch?v=7MzSfZTwGSU



高山正之 戦後の在日蛮行原因を語る
https://www.youtube.com/watch?v=P6eUqvYIoeo









★GHQ公文書記録:1947年~50年の3年間だけでも約4600人もの日本人殺害した朝鮮人達 ★

■終戦後 「朝鮮進駐軍」部隊と名乗る武装集団が各地に出現

通りすがりの市民に言いがかりをつけ、目が合えば気にいらないと言っては集団暴行、 飲食店に入っては無銭飲食などは当たり前、また白昼に目に付いた婦女子を路上で 集団強姦など日常茶飯事に繰り返される戦後があった。

バスや電車列車では駅員を殴り倒して乗り込み、乗客を殴り金品や荷物を奪い取るなど やりたい放題だった。 日本の丸腰警察をいいことに、白昼堂々と警官狩と称す「殺し」も 全国で多発した。武装した「朝鮮進駐軍」が日本の警察署を襲撃する事件が全国各地で頻発していた。彼らは、当時米軍と同じ外国人扱いで、国内の治安法律等は外人の彼ら には一切及ばなかった。日本人を殺しても一切罪にならなかった。この間に一万人以上の 日本人市民が殺害されてたと見られている。GHQの記録として残っている分だけでも四千 人以上の日本人が殺害されている。

やりたい放題で日本人支配が進み、「朝鮮進駐軍」による軍事行動が起きた。日本政府 乗っ取りクーデターが、1946年の「首相官邸暴動事件」。約2000人の武装した「朝鮮進 駐軍」が「戦勝国民」の権利を掲げ首相官邸に突撃、「朝鮮進駐軍」は日本の警官隊や米 軍憲兵隊との銃撃戦となった。

この日本全土で暴れまくる「朝鮮進駐軍」の襲撃殺人は、工場施設や企業、官庁の破壊 活動と次第に共産軍化し、ついに米軍施設も襲撃されたことから、最高司令官ダグラス・ マッカサー元帥が、米軍第八軍団に重装備させ日本各地の「朝鮮進駐軍」武装集団の鎮 圧に動き制圧し彼らを解体し終った。しかし、この人殺し朝鮮人達は処罰を受けることなく、 今ものうのうと日本で暮らしている。


「白い手黄色い手」 1956年 毎日新聞社 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)
「もう日本人じゃない」日本降伏の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、 まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人だった。 彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。
彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。
在日は戦後の混乱に乗じて徒党を組んで武装し、暴行・強奪・強姦・殺人・・・・やりたい放題した土地も焼け跡の繁華街や一等地等に一夜づくりのバラックを構え、家を建て地主が抗議しても脅迫や暴力で我が物とした。
闇市も日本人から強奪したものを暴利で売って金儲けし、儲けた金で日本人から奪った土地で パチンコ屋や焼き肉屋を始めた
それに一部の日本人を覚醒剤(以前はヒロポン)漬けにしてるのも朝鮮人でありヤクザの資金源にしてる

何かにつけ「差別だ差別だ」と叫び、現在まで様々な権利を要求し手に入れ 今では日本人以上に優遇されているが、在日の要求は止まらない。




■終戦直後の朝鮮人の土地略奪…志方俊之、日下公人…Voice 1 月号より ■

日下 ................

第四は、国税庁が正しい課税を行う。いま上野や神戸に朝鮮人がたくさん住んでいるのは、 終戦直後に不動産の「即時取得」をしたからです。

志方 その話は初耳ですね。

日下  年の効です(笑い)。日本が空襲で焼け野原になると、自分の息子が戦地から帰ってきたときのために、街のあちこちに父・母の疎開先を記した看板がたっていました。その看板が立って いない土地は一家全滅の印で、そこに朝鮮人や台湾人が家を建て、店を出して住み着いた。(最初は そういうところから始まったが、やがて手当たりしだいにバラックを建てて不法占拠した)

 阪神・淡路大震災が起こるかなり前から、神戸市は「地震や火事の際に危険なので、入り組んだ街 を整理します」という通知を出していたが、調査されると不法占拠した土地だと分かるから、 彼らは反対した。その結果、消防車も入れないような細い道が放置され、震災にともなう火災で焼 死者が多く出ました。
 国は10兆円のお金を神戸市復興に投じたが、そのときもまた反対があって、五十年前と同じ道 路になっている。
 こうしたことは国税庁も市役所も分かっているのだから、ただ「税金をきちんと納めなさい」と いうだけでよいのです。

日下   まさに当時は「弱肉強食」の時代でした。戦争が終わって秩序が崩壊したときは、 「自分のものは自分のもの、他人のものも自分のもの」とばかりに、平気で破廉恥なことをした人が儲かった んです。敗戦直後のイラクみたいなものですがそうは思っていても、やらない人はやらなかった。日本人がそうです。
露骨にやったのが、朝鮮人、それから台湾人。破廉恥な行為を正当化するために「我々は日本人ではなく、 連合国民だ」と言ったんです。

「戦勝国民」だから、税務署に税金は払わない、警察の命令には従わない。それで闇市の堀って小屋みたい な店に「戦勝国民の店」と書いた札を張って、税務署と警察を遮断しましたから、かなり儲かったことでしょう。
売るものをどこから調達してきたかというと、彼らは、「陸海軍が潰れたときに倉庫にあったものを持って来た」と 言っていました。
早く言えば盗んできたものです。それからアメリカ軍にも物資の横流しをする人がたくさんいました。それで韓国人、台湾人に成金がたくさん出ました。

日下公人 
その上、不動産泥棒をする。都会は丸焼けになったものだから、元の地主が分りません。持ち主が焼死せず疎開先の田舎から戻って来たら、自分の土地が占領されている。白昼堂々、不動産を囲って、ここは私の土地だ と主張している。法律は、不動産に泥棒はないということを前堤にできていますから、法律に訴えても無駄でした。
それから十数年たって、ようやく不動産を元の持ち主に返せという判決が出ました。それが有名な「大阪駅前訴 訟」です。
それまで、十数年間は、土地を囲んでしまえは、自分のものにしてしまえたわけです。そうした不動産泥棒の朝鮮人が日本中いたるところにいました。
上野の駅前でも、新宿でもいたるところでそれと同じことが起きました。そういうふうに、不動産泥棒をしてビルを建てて朝鮮人や台湾人は成金になっていきました。

http://korea-log-01.hp.infoseek.co.jp/1077429167.html



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