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【写真あり★韓国で日本人女性が暴行される】韓国・ソウルで23日、観光で訪れていた日本人の女性が暴行被害に遭った。男から声をかけられ無視したところ、髪の毛を引っ張られるなどされた

韓国・ソウル市内で23日、観光で訪れていた日本人の女性が韓国人の男に髪の毛を引っ張られるなど暴行を受けた。日韓関係が悪化する中、起きた事件に、韓国国内でも男の行為を非難する声が相次ぎ議論を呼んでいる。

韓国メディアによると23日午前6時頃、ソウル市内の繁華街で日本人女性が韓国人の男に「遊ぼう」などと声をかけられ無視したところ、男から差別的な言葉で罵られたという。女性が携帯電話でその様子を撮影しようとすると、男が髪の毛を引っ張り地面に押し倒すなどの暴行をしたという。

地元警察は24日、この男を特定して事情聴取を行い、暴行などの疑いで立件を検討している。韓国メディアによると男は暴行について否認し、「反日感情とは関係ない」などと説明したという。

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2019年8月25日 7時14分
日テレNEWS24








■ あなたはいくつ知っていますか?…終戦直後の僅かな期間の、在日朝鮮人が起こしてきたテロ、暴動、凶悪犯罪の一部です 
★(各事件の詳細は検索してください)
 ■





朴烈事件(大正12年): 民潭創設者・朴烈が起こした天皇暗殺未遂テロ

直江津駅リンチ殺人事件(昭和20年): 満員列車で起きた在日よる日本人リンチ殺害

大阿仁村事件(昭和20年): 在日鉱山労働者が栗林に無断侵入&警官と乱闘

生田警察署襲撃事件(昭和20,21年): 山口組成長のきっかけとなった在日による警察署占拠事件

首相官邸デモ事件(昭和21年): 生活物資の優先配給を求めた在日が暴徒化

坂町事件(昭和21年): 闇市の取締りに反発した在日による暴力事件

新潟日報社襲撃事件(昭和21年): 坂町事件の記事の撤回謝罪を要求した在日による暴行

富山駅前派出所襲撃事件(昭和21年): 犯罪人解放を狙った在日による警官襲撃

長崎警察署襲撃事件(昭和21年): 犯罪人釈放を目的とした在日集団テロ

富坂警察署襲撃事件(昭和21年): 犯罪人逃亡を企てた在日による警察署占拠

尾花沢派出所襲撃事件(昭和22年): 闇米を摘発された在日が派出所を襲う

阪神教育事件(昭和23年): GHQが戦後初めて非常事態宣言を布告した大規模テロ

評定河原事件(昭和23年): 北朝鮮国旗掲揚を巡った在日と米軍憲兵との乱闘

宇部事件(昭和23年): 山口県宇部市における在日による生活保護要求テロ

益田事件(昭和24年): 密輸入物資隠匿で摘発された在日を巡る襲撃テロ

枝川事件(昭和24年): 集団窃盗犯逮捕に絡んで起こった在日による警察官暴行拉致事件

高田ドブロク事件(昭和24年): 密造酒醸造犯による脅迫暴行デモ

本郷事件(昭和24年): 朝鮮人地区の地図作成に対する在日の集団暴行

下関事件(昭和24年): 韓国政府の在外国民登録に反発した在日が暴徒化

台東会館事件(昭和25年): 朝連解散&朝連会館接収を拒否した在日が起こした公安事件

連島町事件(昭和25年): 朝鮮解放5周年集会に集まった在日による暴動

長田区役所襲撃事件(昭和25年): 在日が生活保護を要求して襲撃

四日市事件(昭和26年): 朝連支部接収に反対した在日が起こしたバイオテロ

王子朝鮮人学校事件(昭和26年): 東京朝鮮学校による違法印刷物を巡った在日の暴動

神奈川事件(昭和26年): 神奈川県朝鮮人学校PTAによる暴力事件

下里村役場集団恐喝事件(昭和26年): 生活保護と強制送還阻止を求めた在日が村役場を占拠

東成警察署催涙ガス投擲事件(昭和26年): 警察が同胞を殺したとデマを流し暴徒化した在日によるテロ

軍需品製造工場襲撃事件(昭和26年): 東成署事件の追悼集会で在日が再び暴徒化

半田・一宮事件(昭和26年): 密造酒取締に抵抗した在日が警察署を占拠

日野事件(昭和26年): 在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊による違法デモ&暴動

万来町事件(昭和27年): 生活保護増額を却下された在日が集団で福祉事務所を襲撃

木造地区警察署襲撃事件(昭和27年): 日本共産党の指示で在日が起こした襲撃事件

姫路事件(昭和27年): 民潭と総連間の抗争事件

血のメーデー事件(昭和27年): 左翼団体と在日による皇居外苑における騒乱事件

上郡事件(昭和27年): 日本の公立学校入学を巡った在日の内ゲバ暴行事件

八坂神社事件(昭和27年): 在日デモ隊が大阪東成・八坂神社に無断侵入

宇治事件(昭和27年): 在日による複数の派出所占拠

多奈川町事件(昭和27年): 密造酒一斉摘発に抵抗した在日が集団暴徒化

田川事件(昭和27年): 日本人花見客と在日グループとの争いで死亡者が出た暴行事件

大村収容所事件(昭和27年): 韓国が強制送還引取拒否した在日犯罪者達が収容所内で暴徒化

広島地裁被疑者奪回事件(昭和27年): 裁判中に在日放火犯を奪還し逃走

桜井町事件(昭和27年): 旧朝連系在日よる民潭系在日への襲撃事件

奈良警察官宅襲撃事件(昭和27年): 桜井町事件検挙に反発した在日が警官宅を襲撃

高田事件(昭和27年): 旧朝連系在日による民潭&派出所襲撃事件




戦後の僅かな期間の、

大きく報道された在日朝鮮人による事件の一部です。







阪神教育事件(はんしんきょういくじけん)

阪神教育事件(はんしんきょういくじけん)は、1948年(昭和23年)
4月14日から4月26日にかけて大阪府と兵庫県で発生した在日朝鮮人と日本共産党による民族教育闘争、大規模テロ、逮捕監禁・騒乱事件で、 GHQは、戦後唯一の非常事態宣言を布告した。

朝鮮人学校事件、大阪での事件は大阪朝鮮人騒擾事件、 また神戸での騒乱事件は神戸朝鮮人学校事件とも呼ばれる


事件の発端

1947年(昭和22年)10月、連合国軍最高司令官総司令部総司令官ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、「在日朝鮮人を日本の教育基本法、学校教育法に従わせるよう」に指令した。

このころ在日朝鮮人の子供たちは、日本内地の教育により、朝鮮語の読み書きが充分にできなかったため、日本各地で国語講習会が開催され、文字と言葉を知ったものが先生となり、在日朝鮮人の子供たちに朝鮮語を教えた。教材は独自に作成された。

国語講習会は在日本朝鮮人連盟(略称は朝連)事務所や工場跡地、地元の小学校校舎などを借りて開かれた。その後、国語講習会は朝鮮人学校に改組され、学校は全国に500数十校、生徒数は6万余人を数えた。

1948年1月24日、文部省学校局長は各都道府県知事に対して、「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達を出し、
朝鮮人学校の閉鎖と生徒の日本人学校への編入を指示した(朝鮮学校閉鎖令)。

同年1月27日、朝連は第13回中央委員会を開催し、朝鮮学校閉鎖令に対し反対を表明した。さらに、「三・一独立運動闘争記念日」に合わせて、彼らの主観における「民族教育を守る闘争」を全国で展開するように訴えた。

大阪府と兵庫県ではこの通達に基づき、朝鮮学校の閉鎖を命じた。阪神地区では、朝連の宋性澈が闘争、暴力事件の指導に当たった。在日朝鮮人・金太一が闘争中に警官に射殺されている。


事件の概要

大阪府
1948年4月23日9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府府知事との交渉を行うことになった。

12時30分、大阪府庁知事室において、副知事(知事は当日不在だった)と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが、合意には至らなかった。

代表者はしばしば威圧的、脅迫的な言動を行った。

15時、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中から、シュプレヒコールが起こった。

50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を組織的な暴力を駆使して突破した。

15時30分、行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を暴力で占拠した。

副知事は警察官の誘導により、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。

17時ごろ、群衆は知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといったテロ活動をした。

日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は、川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、どうにもできなかった。

夜、大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人が篝火を焚いた。朝連は、川上貫一を代表として交渉の場を作ろうとしたが、アメリカ軍や武装警官が到着した。

その後、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らは、武装警官隊と乱闘となり、在日朝鮮人のうち1人が死亡、20人が負傷した。

警官側の負傷者は、それを上回る31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。

4月25日、朝連や日本人約300人が大阪南警察署に押しかけ、逮捕者の釈放を要求、脅迫した。警官隊は、約300人に向けて威嚇射撃を行い追い返した。

4月26日、朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催した。 午後、朝鮮人代表者と大阪府知事との間で再度交渉が行われた。

15時40分、別室に待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と、大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示した。

在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始する暴力行為を行った。

武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。在日朝鮮人金太一が死亡した。

検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。阪神教育闘争の指導者の一人であった朴柱範は逮捕・投獄され、釈放された直後に死亡した。

事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。



兵庫県
1948年4月10日、兵庫県県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して、封鎖命令を出した。

4月14日、朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。
言動はしばしば威圧的、脅迫的になった。

4月23日、警官隊とMPは、朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖した。
4月24日、朝鮮人学校灘校と東神戸校の封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が、兵庫県県庁前に集結した。

9時30分、兵庫県庁知事室で、岸田、神戸市市長・小寺謙吉、検事正ら15人は、朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と、在日朝鮮人の抗議集会対策を協議した。

朝連は兵庫県知事室での密談の情報を入手し、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入し、知事応接室を占拠して備品などを破壊するテロ行為をした後、壁を打ち破って知事室になだれ込み、岸田幸雄やMPを拉致監禁した。

在日朝鮮人や日本人約100人は、電話線を切断するテロ行為を行って外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを、自由を奪った状態の岸田幸雄に強要した。

17時、岸田は、暴力的な威圧の下で「学校閉鎖令の撤回」
「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」
「逮捕された朝鮮人の釈放」を誓約させられた。

22時、岸田、吉川兵庫県副知事、市丸検事正、田辺次席検事、出井兵庫県警察長、古山神戸市警察局長らは、占領軍兵庫県軍政部に集められた。

23時、兵庫県軍政部は「非常事態宣言」を発令した。

これによって、全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入った。

兵庫県庁への乱入者の徹底検挙が命じられ、岸田幸雄が暴力的な威圧下で誓約させられた「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などは、脅迫によるものであったこともありすべて無効とされた。

4月25日早朝、アメリカ軍憲兵や日本警察官は兵庫県庁への乱入する集団テロの関係者の検挙を開始。

4月28日、非常事態宣言解除。

4月25日から4月29日までに、1590人もしくは7295人が検挙された。
日本共産党神戸市市議会議員・堀川一知も検挙された。

検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。日本人は堀川のみで、重労働10年の判決を受けた。

在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出され、刑期終了後は本国に強制送還されることになった。



事件の決着

同年5月5日、朝連教育対策委員長と文部大臣との間で、「教育基本法と学校教育法を遵守する」「私立学校の自主性の範囲の中で朝鮮人独自の教育を認め、朝鮮人学校を私立学校として認可する」との覚書が交わされた。







坂町事件(さかまちじけん)

坂町事件(さかまちじけん)とは、1946年(昭和21年)9月22日に、新潟県岩船郡保内村(現・村上市)で発生した事件。


事件の発端

終戦直後より在日朝鮮人や在日中国人は、取締権限の不明確さに乗じて公然と日本の法律を無視し、食糧管理法に反するヤミ米の流通・販売などの経済統制違反を繰り返していた。

新潟県北部では、在日本朝鮮人連盟が新発田市に事務所を置き、羽越本線坂町駅を中継基地として、ヤミ米を関西方面に出荷していた。当時、1日あたり50俵が坂町駅を経由したといわれている。


事件の概要

1946年9月22日午前0時50分頃、
村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。

警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。

警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。

この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。

警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。

金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。

その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。

その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。

軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された。


その後の顛末

検挙された12人は新潟軍政部に移され、取り調べを受けたが、新潟県外への追放とヤミ米の買出しをしない旨の誓約書提出だけで全員釈放された。

またこの事件を報じた報道機関が、朝鮮人に破壊活動を受ける新潟日報社襲撃事件へと発展した。





新潟日報社襲撃事件

新潟日報社襲撃事件(にいがたにっぽうしゃしゅうげきじけん)とは、1946年(昭和21年)9月29日に新潟県新潟市で発生した暴力事件。

事件の発端

1946年9月23日付の新潟日報夕刊は、「MPも出動、坂町で深夜の乱闘」と題して、在日朝鮮人や在日中国人が新潟県岩船郡保内村(現・村上市)内で起こした坂町事件の記事を掲載した。読売新聞も事件を報じた。



事件の概要

1946年9月26日、在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。

両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。

その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。

9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。

新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。

新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した。


その後の顛末

最終的に9人が起訴され、裁判の結果、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反と業務妨害罪で有罪の判決が下った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/新潟日報社襲撃事件















神戸は終戦直後には朝鮮人の暴動が頻発し「魔都」といわれた くらいの無法地帯だった。
警察が山口組の三代目に依頼して暴虐な朝鮮人をやっと押さえ込むことができたくらいだ。
山口組の三代目の伝記を読むと当時の朝鮮人の非道ぶりがわかる。

■ 飯干晃一 著「山口組三代目 田岡一雄自伝」(p194)(1971年初版 徳間書店)

▲昭和20年8月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。
人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
 一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。

「どないしたんや」

「おかあちゃんが、おかあちゃんが」

少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。

この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。

「ここにいるんやで。ええな」

私は少女をその場において一目散に走った。

少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。朝鮮人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。
女は狂ったように絶叫していた。

「汚ねえ・・・・」

うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。









■朝鮮人の男たちが、藪の中へ女の人たちを引きずっていくのを見た

「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」より


「私たちは京城をでなければいけない。朝鮮人の男たちが、藪の中へ女の人たちを引きずっていくのを見たし、
若い女性に乱暴しているのも見たわ」(111頁)。

「男たちの集団は去ったが、彼らは悦楽を求めて人々の間をよろよろ歩き、そして娘たちを見つける度に外へ引きずり出した。
たびたび女たちの悲鳴が響いた」(118頁)。

また、朝鮮人が、日本人を殺したうえで金歯まで抜いている記述もある(129頁)。




【国際派日本人養成講座】より転載

11歳少女の朝鮮半島脱出記 ~ 『竹林はるかに遠く』から

「ソ連兵が上陸してくる」との突然の警告に、11歳の擁子と母、姉3人の
満洲国境近くから母国日本への逃避行が始まった。



■1.「私も娘もこの本を読みました」

「1986年にアメリカで刊行後、数々の賞を受賞。中学校の教材として採択された感動秘話」。

『竹林はるかに遠く』日本語版のAmasonでの紹介である。日本語版は発売されてからまだ2ヶ月も経っていないが122件ものレビューが寄せられ、うち109件、89%が「星5つ」をつけている。

 アメリカのAmasonでも同様のようで、115件のレビューが寄せられている。しかし、在米韓国人からの批判も多く、「星5つ」が77件、「星1つ」が20件と、評価が両極端に分かれている。一般の米人読者と思われる「星5つ」のレビューでは、

__________
私も娘もこの本を読みました。この本が大好きになりました。
この本が素晴らしいのは、戦争がいかにお年寄りや女性や子供たち、家族全体に惨(むご)いものかを示している所です。
なぜ、この本を学校で子供たちに読ませてはいけないのか、分かりません。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「学校で子供たちに読ませてはいけない」というのは、韓国で「この本に反対しよう」という新聞記事が出て、米Amasonのレビューにも「星1つ」で「歴史をねじ曲げている」云々のいかにも韓国人の書いたと思われる意見が寄せられているからだ。韓国ではこの本は販売禁止にされているという。

 この本を読んでみると、事実を冷静に述べながらも、ぐいぐいと読者を引っ張る語り口で、上記の「素晴らしい」という感想に私も共感した。しかし、「読ませてはいけない」という韓国人の気持ちも理解できる。なにしろ登場する韓国・朝鮮人たちは、主人公の兄を助けた1家族を除いて、残虐な共産主義者や非情な人間が目立つからだ。


 また、そんな修羅場でも主人公たちを助けてくれる何人かの日本人の姿も描かれている。胸に迫るこの物語を読めば、「星1つ」をつけたレビューが負け犬の遠吠えに聞こえてくる。

 これは一人の少女が自らの体験を一人称で語った迫真の物語である。こういう歴史があったことを、日本人としても知るべきだろう。本号で、そのさわりだけでも、味わって貰いたい。


■2.「すぐに避難するよう」

 1945(昭和20)年7月29日真夜中のことだった。朝鮮北部の羅南(ラナム)、満洲との国境線から80キロほど離れたこの古い町から、11歳の川嶋擁子(ようこ)と16歳の姉・好(こう)は母親と一緒に脱出した。満洲鉄道に勤務する父は家におらず、また長男の淑世(ひでよ)も勤労動員で、30キロ離れた兵器工場に行っていた。

 きっかけは、真夜中に松村伍長がやってきて、すぐに避難するように警告したことだった。まもなくソ連兵が上陸してきて、満鉄に働く人の家族は殺されてしまうでしょう、という。

 松村伍長は、かつて重傷を負って入院していた時、擁子が日本舞踊で慰問をしたことで、生きる気力を取り戻し、元気になった。その後、擁子の家に出入りするようになっていた。

「日本人の病人を避難させている赤十字列車(傷病兵輸送列車)が、朝4時に羅南駅を出発します。それにあなたたちが乗れるよう、私が駅長に取り計らってあります。彼は私の友達なのです、、、」

 話し声に目を覚ました擁子のおでこに唇をあて、「君のことは忘れないよ」と言って去ろうとする松村伍長を呼び止めて、擁子は「武運長久」と書いてある半紙を渡した。「ありがとう。自分も皆さんのご無事を祈ります」と言って、暗闇の中に消えていった。

 父親と兄・淑世に置き手紙をし、3人は取り急いで荷物を風呂敷にまとめて家を出た。


■3.「乗せてあげなさい!」

 3人は駅までの川沿いの道を歩いた。大きな窪みがいくつもあり、擁子がそれにつまづく度に、母親が手首を結んだ細引きを引っ張って起こしてくれた。細引きが手首を擦って痛かった。

 「気分が悪いよぉ、、、」。擁子は半泣きで言った。「静かに」と母はささやいた。耳を澄ますと、遠くに軍隊の足音がした。3人は急斜面の土手を滑り降りて隠れた。「イル(一)、イー(二)、サム(三)、サー(四)」の掛け声で訓練している反日朝鮮軍だった。

「敵を殺す訓練をする」と部隊長が言って、敵の刺し方や、死体を引きずる方法を教えた。擁子は吐いてしまったが、好が覆い被さり、兵たちに聞こえないようにした。兵たちは、また掛け声とともに遠ざかっていった。

 ようやく駅に着くと、病院や軍のトラックがぎっしりと止まっており、負傷した兵隊たちや衛生兵、民間医療班でごった返していた。なんとか駅長を見つけると、彼は朝鮮人だった。母が「乗車の許可をいただいているのですが」と言っても、冷たい目を向けて「病気のようには見えないが。汽車は患者専用だ」と言い放った。

 そこにいあわせた日本人の軍医が「乗せてあげなさい!」と命令した。擁子たちが陸軍病院に慰問に行った時に、その姿を見ていたのである。軍医の威圧的な態度に、駅長は「わかった。女性患者の貨車に乗りなさい」と言った。

 三人は軍医に深々とお辞儀をした。この人が居合わせなかったら、列車には乗れなかったろう。


■4.「目を覚まして!」

 貨車の中で、多くの病人、怪我人、妊婦たちが隙間なく、むしろの上に寝かされている間に、擁子は膝を胸につけて小さくなっていた。あちこちから、呻き声や泣き声が聞こえてきた。

 列車が走り始めてしばらくすると、空は淡いピンク色に変わり始めた。「家よ!」と好が叫んだ。父と兄が夏の日に竹竿の先にくくりつけたラジオのアンテナが見えた。擁子は、少しでも長く見ようと、列車から身を乗り出した。母は家を見ようとはせず、目頭を押さえて泣いていた。

 夜になると、お腹が空いてきて、リュックサックをあさったが、母から止められた。他の人もずっと何も口にしていないので、一人何か食べると不公平になってしまうからだ。「皆お腹が空いているわ。皆にあげる分はないの。明日には京城(ソウル)に着くわ。そうしたら何か作りましょう。水を少し飲んで我慢しなさい」

 となりに座っていた母親が赤ちゃんにおっぱいをあげようとしたが、その口と目は閉じたままだった。母親が「目を覚まして!」と叫んで、赤ちゃんをゆらしたが動かない。衛生兵と看護婦が、赤ちゃんの死を伝え、遺体の始末をするから子供を渡すように言った。

 母親は夫の名を呼んで助けを求めた。衛生兵は抵抗する母親から赤ちゃんを奪い取り、貨車の外に放り投げた。その小さな身体はほんの一瞬、人形のように空中をゆっくり飛んでいき、すぐに見えなくなった。それを見つめていた母親は、やにわに立ち上がり、貨車から飛び降りた。「ああ!」、擁子の母は両手で顔を覆った。


■5.「先頭の機関車がやられた!」

 夜が更けた頃、汽車が突然大きく揺れて止まった。ブーン。グワン、グワン、グワン、グワン。飛行機が上を飛んでいった。外を見た衛生兵が叫んだ。「先頭の機関車がやられた!」。擁子と好が外に出ると、機関車から轟々と炎が上がっていた。

 衛生兵は「赤十字をつけた列車や船を攻撃してはいけないことになっているのに、、、」と憤慨した。母が「今何処に居るのですか?」と聞くと、「京城から70キロ離れたところです」

 3人は列車を降りて、線路沿いに南に向かって歩き始めた。燃えさかる機関車の横を通ると、黒焦げになった機関士が見えた。「見るんじゃないの!」好は強い口調で言った。線路は上弦の月明かりで不気味に輝き、前方へ延々と伸びていた。

 歩き続けて、夜が明け始めると、母は線路から離れた所に茂みを見つけ、日中は共産軍に捕まらないように、そこに隠れて毛布にくるまって眠った。

 目が覚めると、飯盒で米半合を炊いて、4日目にして初めて、ご飯を口にした。こうして次の7日間、昼は休み、夜だけ線路に沿って歩いた。擁子が「これ以上、歩けないわ」と泣き言を言うと、好は「歩かなければいけないの! 黙って歩きなさいっ」とぶっきらぼうに言った。


■6.「今夜楽しむには、丁度いい年頃だな」

 そんなある日、食事の後片付けをしていると、突然、3人の共産兵が立ちはだかった。擁子たちは恐怖で身動きできなかった。兵たちは銃を向け、「立て!」と怒鳴った。3人とも好を見ていた。「お前はいくつだ」と聞いたが、好は答えなかった。「今夜楽しむには、丁度いい年頃だな」と一人は言った。

「お前たちは所持品を全て、、、」と兵隊の言葉が終わらないうちに、飛行機の爆音が聞こえ、頭すれすれに飛んだので、慣れている擁子たち3人はすぐに地面に伏せた。ドカーン! 爆弾が近くで破裂した。擁子は遠く吹き飛ばされたようだった。目の前が真っ暗になり、気絶してしまった。

 乱暴に揺すられて、擁子は目を覚ました。母は何かを言っていたが、何も聞こえなかった。「聞こえない」と言うと、胸に激しい痛みが走った。そこに触れると、手は温かさを感じた。血だった。「兵隊たちはどこにいるの?」と聞くと、好の唇の動きから「死んだ」と読むことができた。

 好はリュックからシュミーズを出して、擁子の胸に巻いた。母は擁子に毛布をかけて頭を撫でながら、涙を擁子の顔にぽろぽろとこぼした。擁子はいつしか眠りに落ちていった。

 擁子はまる一日寝て、次の日の朝早く母に起こされた。まだ耳は聞こえなかった。次の瞬間、目に入った好の姿に驚いた。身を守るために共産軍の軍服を着て、長い髪を切り落としていた。母も軍服を着ていた。死んだ兵隊のものだとすぐに気づいた。

 母は擁子を正座させ、大切な家宝である短剣を出して、頭を剃った。「坊主になりたくないよぉ」と、擁子はしくしく泣いた。それが済むと、母は擁子に死んだ兵隊の軍服を着るように言った。

「死んだ人間の服なんか脱がせたくないわ」と言うと、「私がもう脱がしたわ」と好が言って、軍服を手渡した。汗とタバコの強い臭いがした。好は袖とズボンを巻き上げてくれたが、それでも大きすぎた。その格好で、3人は、それから何日も、線路を歩き続けた。


■7.「戦争は終わった」

 3人は、70キロを歩いて、ようやく京城に着いた。武装した日本人の警官が北から逃げてくる避難民を検問していた。「これからどこに行くのか」と尋ねられて、母は、息子が着くまで京城に留まり、戦争が終わったら、羅南に戻るつもりだと話した。

「戦争は終わった」と彼は言った。3人は驚きのあまり呆然とした。「いつ?」と好が聞くと、「昨日だが、君たちは羅南には戻れない。今、朝鮮では、日本人は危険な状況下に置かれている。だから、北からこれほど多くの人たちが避難しているのだ。」

「今日は何日ですか?」とまた好が聞くと「8月16日だ。では、長崎と広島に原子爆弾が落ちたことも聞いてないのか?」
羅南を脱出したのが7月29日夜だったので、3人は2週間以上もかかって、京城まで辿り着いたことになる。

 もう一人の警官が言った。「日本は負けた。広島も長崎も地獄そのものだ」 突然、母が地面に倒れた。警官は、周りに立っていた男たち数人に、母を駅の中へ運ぶように言い、自分はウイスキーを取ってきて、ほんの少し母の口の中に注ぎ、好は軍服の前のボタンを外し、胸をマッサージした。

 母が意識を取り戻すと、警官たちは親切に「娘さんの怪我の手当をしてやりなさい」と、屋根に赤十字が書いてある大きなテントがいくつかある場所を教えてくれた。


■8.竹林はるかに遠く

 そこで擁子を治療してくれた若い医師、武田は、偶然にも父の同級生の息子で、父をよく知っていた。「患者は全員、今月の末までにトラックで釜山に向かいます。赤十字船が10月2日にそこから日本に出発することになっているのです。一緒に母国に戻りましょう」

 しかし、母は長男の淑世に書き置きした通り、京城で待つつもりだった。毎日、北からの列車が到着する度に、淑世がいないか、捜しに行った。食べ物は病院裏のゴミ箱からあさってきた。初めは擁子は強い異臭を放つゴミ箱に手をいれることなど出来なかったが、好に「やりなさい!」と厳しく命令されて、やるようになった。

 好は、朝鮮人の男達が避難民の日本の女性を藪の中に連れ込んで、乱暴をした光景も見た。それでもう一度、髪を剃って貰い、ガーゼで胸をきつく巻いて、また薄汚れた軍服を着た。

 一度、独立を祝いながら酔った朝鮮人たちに取り囲まれたが、この変装で好は難を逃れた。しかし、連中は他の女性を見つけると、引きずり出した。たびたび悲鳴が響いたが、朝鮮人を怒らせると、何をされるか分からないので、誰も女性たちを助けようとはしなかった。

 母国日本に戻るには、京城から釜山を経て、さらに海を渡らなければならない。母国に戻れても、焼け野原になったという国土で、どんな生活が待っているのか。兄・淑世は今頃どうしているのか。

 羅南の家には、ちょっとした竹林があった。それは母が青森の実家の竹林を恋しがって、父が東京に出張した際に持ち帰った竹の根っこを植えたものだった。3人はすでに羅難の竹林から遙か遠くに来ていた。しかし、母国の母の実家のまだ見ぬ竹林も、いまだ遙か遠くにあった。

http://blog.jog-net.jp/201309/article_1.html



「11歳少女の朝鮮半島脱出記 ~ 『竹林はるかに遠く』から」に寄せられたおたより

■春子さんより

私も、川嶋擁子さんの「竹林はるか遠く」を一気に読みました。

民間人として戦争を生き延びてこられた体験に引き込まれるようにして読みました。わずか11歳の少女が味わった、敵地と化した外地から避難することの想像を絶する数々の体験を記したこの本は日本でも教材として取り上げて欲しいと思いました。

擁子さん姉妹がやっとの思いで日本に帰ってきてからの話にも胸を打つものが多くあります。数々の試練を乗り越えて自立していかれる姿には頭が下がります。この本は今の日本人にたくさんのことを教えてくれているように感じました。

擁子さんはまだ御健在でいらっしゃるようですから、これからもお元気で過ごされることを祈ります。


■義郎さんより

この度、 『竹林はるかに遠く』のご紹介をありがとうございました。私も邦訳が出ると聞いて、市立図書館と県立図書館に購入希望を出し、読み終えたところです。

自分でも感想文を書こうかと思っているところで、伊勢様の過不足ない文章に接することができました。

この本の素晴らしいところは、イデオロギーに毒されていない幼い主人公・擁子の体験を通して描かれているところだと思いました。

韓国や在米韓国人が反対する残虐な共産主義者や非情な人間に対する描写は、見聞した事実が描かれており、何ら偏見を導いているものではありません。さらに、吹雪の中で力尽きた主人公の兄・淑世を助けた金さんの家族への感謝の思いが綴られており、バランスよく語られています。

在米各地に朝鮮人売春婦像が設立されるなど、韓国人及び韓国系米人による反日活動が盛んです。史実の裏付けのない主張を声高に繰り返す彼らの活動に対抗するには、このような実体験に基づく書物の普及が望ましく感じます。



■リンク■

a. JOG(357) 同胞4万救出作戦
 内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、日本軍将兵が立ち上がった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h16/jog357.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ『竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記』★★★、ハート出版、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4892959219/japanontheg01-22/









■引揚日本人を襲った 朝鮮人保安隊 の略奪・暴行・殺戮の嵐■

「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、
 今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。
 北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
 辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
 そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、
 ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、
 虐殺されている光景であった。
         (中略)
「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対する
 ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
 夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。
 娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
 みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。
 部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
 靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。
 一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
 城津での惨状は言語に絶した。(中略) 朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、
 干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
 あげくは婦人の"提供"を要求されたという」
 博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた

◆関連動画

 終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ01  
http://jp.youtube.com/watch?v=bDjPZXw0yHg




 終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ02  
http://jp.youtube.com/watch?v=aXPoy_5OFxY&feature=related





■■■ この史実を歴史教科書に載せよう ■■■

敗戦直後の日本女性強姦についてはソ連兵が悪名高いが、
実際には 朝鮮人によるものがダントツで多い。



▲「水子の譜(うた)」上坪 隆-----ドキュメント引揚孤児と女たち-----
http://www.ebookjapan.jp/shop/book.asp?sku=60009096&genreid=10010



二日市保養所の資料は、六月十日の報告書 p183 "地域別と加害者"
これは、2ヶ月分だけの記録…加害者の6割が朝鮮人だと示しています。

尚、記録に残っているのは堕胎手術を受けた女性だけで、前途に絶望して
帰国船から日本を一目見ただけで身投げをした女性もたくさんいました。



■「朝鮮人が日本人少女に暴行」…内容に現地韓国系市民が反発■ 

▲日本の敗戦直後、韓国人らが韓国から脱出しようとする日本人の女性や子供を迫害し、性的暴行をほしいままにしたという内容が記された日本人作家の自伝的実話小説が、米国の全地域で中学校の教材として使われていることが分かり、現地の韓国系市民らが強く反発するなど、波紋を呼んでいる。

▲問題の本は、日本人鉄道会社社員の娘で、1945年の日本敗戦時に北朝鮮の羅南から脱出したヨーコ・カワシマ・ワトキンズ氏が書いた

『ヨーコの話(So far from the Bamboo Grove:竹の森遠く)』。

1986 年に出版されたこの本は、第2次世界大戦で日本が敗戦した当時、11歳のヨーコと家族らがソウルと釜山を経て、日本に脱出する過程で体験した内容を記している。
ヨーコ氏は、脱出の過程で起きた韓国人らの日本人に対する無慈悲な追跡とテロ、脱出過程での苦痛と飢えなどを描写し、人々がばたばたと死に、性的暴行がほしいままに襲われるのを目撃したと記述していると伝えられている。


▲この本は、2005年にフリーライターのユン・ヒョンジュ氏が翻訳し、出版社
「文学洞内」から『ヨーコの話』という題名で韓国でも出版された。
 この件について、米日刊紙ボストン・グローブは最近の一連の報道を通じ、米国の全地域で中学校の教材として採択されたこの本に対し、一部韓国系生徒と保護者らが強く異議を唱えていると伝えた。







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■終戦直後の日本人引揚者を襲う朝鮮人たち…「竹林はるか遠く」

朝鮮人の男たちが、藪の中へ女の人たちを引きずっていくのを見たし、若い女性に乱暴しているのも見たわ(111頁)。

彼ら(朝鮮人)は悦楽を求めて人々の間をよろよろ歩き、そして娘たちを見つける度に外へ引きずり出した。たびたび女たちの悲鳴が響いた。(118頁)。

また、朝鮮人が、日本人を殺したうえで金歯まで抜いている記述もある(129頁)。







■通州事件…盧溝橋事件発生から3週間後の1937年7月29日
北平(北京)東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した■



『通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)-日本人皆殺しの地獄絵-』

★「通州事件 目撃者の証言」 (自由社ブックレット5) より 藤岡 信勝 (著) 自由社; 初版 (2016/8/7)

夫を生きたまま腹を切り裂き…「これはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろ」…そうして、その妻である妊婦の腹を切り裂き胎児を取り出す。

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

目玉を抉り取ると今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。

そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。

ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。そしてそれだけではありません。別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。

このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。


1937年 通州事件(つうしゅう)中国冀東保安隊による日本人虐殺事件。被害者約200名
  ・婦人は24時間強姦されたあげく鼻や喉に針金をつけられ殺害現場まで引き擦られる。
  ・旭軒では17~40歳の女性はことごとく強姦され
   陰部を銃剣で刺さたもの、口中に土砂を填めてあるもの、
   腹部を縦に断ち割つて等にて惨殺。
  ・錦水楼では女性達は手足を縄で結ばれ強姦され、斬首。
  ・男は目玉をくりぬかれ、上半身は蜂の巣の様
  ・子供は手の指を揃へて切断され惨殺
  ・南城門では腹部の骨が露出し、内臓が散乱
  ・首を縄で縛り両手を併せて針金通し一家六名数珠繋ぎにして引廻し惨殺。












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