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「ギャーという悲鳴、ブスブスッと銃弾が体に食い込む音が…」日本人1000人をソ連戦車部隊が殺害“葛根廟事件”に巻き込まれた少年の証言 終戦前日の「葛根廟事件



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終戦前日の1945年8月14日。満洲に侵攻したソ連軍に、徒歩で避難中だった日本人が襲われ、戦車に下敷きにされるなどして1000人もの民間人が殺される事件が起きた。なぜ悲劇は起きてしまったのか。昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の1回目/#2を読む)

◆◆◆

被害者となったのは「平穏に生活していた民間人」だった
 昭和20(1945)年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄するかたちで日本に宣戦布告。翌9日未明、満洲国への侵攻を開始した。


 以降、満洲国では実に多くの虐殺事件が発生している。その中でも最も規模が大きかったのが「葛根廟事件」である。

 今ではその名前さえ知らない人が大半であろうが、決して忘れてはいけない重要な史実である。


 葛根廟事件の被害者となったのは、満洲国興安総省の省都である興安街(烏蘭浩特)の住民であった。現在では中国の内モンゴル自治区となっている地域である。

 戦前戦中、興安街とその近辺には、日本からの開拓移民が多く暮らしていた。土地の買収などを巡って問題が起こることもあったが、移民一人ひとりは現地の人々と交流を持ちながら平穏に生活している人たちがほとんどであった。街には神社(興安神社)や国民学校(興安在満国民学校)などがあった。

 戦時中も大きな戦闘はなく、住民は静かな日々を送っていた。

現地召集によって、住民の大半は「女性・子ども・老人」に
 興安街には3000人ほどの邦人が暮らしていたとされる。一時は4000人ほどまで増えた時期もあったが、戦争が長期化すると成人男性の現地召集によってその数は減少した。「根こそぎ動員」により、住民の大半は女性や子ども、老人となっていた。

 こうして迎えた昭和20年8月9日、ソ連軍は国境を越えて、満洲国に侵攻。スターリンは当初、11日の侵攻を命じていたが、6日にアメリカが広島に原子爆弾を投下したことを受け、予定を早めた。

 一方、満洲国を防御するはずの関東軍は、その主力をすでに南方戦線に移しており、戦力は著しく低下していた。これは日ソ中立条約を過信した結果である。或いは関東軍の減少による抑止力の低下が、ソ連軍の一方的な侵攻を招いたとも言える。

 それでも国境付近では、爆雷を抱えた兵士が敵戦車に飛び込むなど、果敢な肉弾戦を繰り広げた守備隊もあった。しかしその一方で、早々に後退した部隊も多く、このことは「関東軍は民間人を見捨てて逃げた」との声を在留邦人の間に生む契機となってしまった。

まずは、ソ連軍機の空襲が始まった

 それまで平穏だった興安街の状況が一変したのは、10日の午前中のことである。十数機ものソ連軍機が興安街の上空に侵入し、爆撃や機銃掃射を始めたのだった。住民は数日前につくったばかりの防空壕などに退避したが、逃げ遅れた人々も多かった。市街地の建物は、軒並み大きく破壊された。

 空襲は日付が変わっても断続的に行われた。

 そんな中、住民たちは街から退避することを決めた。居住地域によって東と西という2つのグループに分かれ、興安街から音徳爾(オンドル)という町を目指して徒歩で避難することになったのである。音徳爾まではおよそ100キロの距離であった。


 西グループは11日の午前中に興安街を発った。しかし、東グループは集合に手間取り、出発が夜になってしまった。東グループはおよそ千数百人の集団だった。

 たくさんの荷物を背負った女性や子どもたちが、暗い夜道を歩き始めた。食糧や水の他、着替えや紙幣などを持っての逃避行である。

 中には荷車を使う者たちもいた。その他、幼児や病人を乗せるための馬車が、1台だけ用意された。

 関東軍の姿はすでになく、避難民たちは軍の庇護を受けることができなかった。


女性や子どもの疲弊や治安状況から葛根廟を目指すことに

 その夜、東グループは興安街から東方へ4キロほど行ったウラハタという町に入り、学校や防空壕などで一夜を過ごした。炊き出しも行われたという。

 東グループは住んでいた地区などによって、さらに7つの中隊に分かれた。選ばれた中隊長の指示のもと、より円滑に退避行動が進むよう、体制を整備したのである。

 小銃や手榴弾などを持ったわずかな男性たちが、各中隊の護衛にあたった。グループ全体を率いるのは、興安総省で参事官を務めていた浅野良三である。

 行き先は音徳爾から葛根廟に変更となった。女性や子どもの疲弊や周囲の治安状況などを考慮し、まずは50キロほど先の葛根廟を目指し、そこから鉄道を利用する計画に変更したのである。葛根廟には白阿線という路線の駅があった。

 こうして翌12日から、再び退避の旅が始まった。

 昼間は8月の強烈な陽光に苦しめられた。やがて人によって歩く速度にかなりの差が見られるようになり、列は徐々に長く伸びていった。

 道には衣服やカバンが落ちていた。前を行く人が、荷物を減らすために捨てたものであった。

 13日の夕方には、大雨が降った。


8月14日、ソ連戦車部隊による攻撃がはじまった
 事件が起きたのは、出発から4日目、8月14日のことである。

 まず午前10時頃、1機のソ連軍機が低空で接近してきた。しかし、その機体は攻撃してくることもなく、その場を飛び去った。偵察機だったと思われる。

 その後の正午前のことである。葛根廟駅を目指して歩く彼らの視界に不意に見えたのは、ソ連の戦車群であった。


「戦車だ!」

 避難民たちは、たちまち攻撃の対象とされた。大規模な砲撃や銃撃が始まった。


 場所は道の両脇にコーリャン畑などが広がる丘陵地帯のようなところであった。丘の先には、地名の由来となった葛根廟というチベット仏教の寺院が建っていた。

 聖なる丘が凄惨な殺戮の場と化した。

 ソ連側の資料を確認すると、この戦車群は第61戦車師団の一部だと思われる。本隊の燃料補給を待っている間に、先遣隊として葛根廟付近まで進出した部隊だったと考えられる。

 空気を切り裂くような砲声や銃声を聞いた避難民たちは、コーリャン畑や窪地などに飛び込んで身を伏せた。戦車が見えない位置にいた人々は、状況をよく把握できないまま退避した。当時、興安電報電話局の女性職員だった本田福江は、その時の様子を後にこう証言している。

〈伏せてたから、音は聞こえるけれども、何も見えないでしょ。最初はてっきり飛行機だと思ったけど、飛行機にしては来るスピードが遅いしね。おかしいなァと思って頭を持ち上げて見ると、戦車なんです。四台ぐらい縦に並んで来てたのが見えたんです。伏せていた場所から五、六メートルと離れていないところを通り過ぎて行ってですね、一台通るたびに土がふくれ上がるし、キビは大きく揺れるし。そこから逃げることも、どうすることも出来ない。弾はヒューンと飛んで来て、プスッと地面に突き刺さって……。ヒューン、プスッ、ヒューン、プスッって〉(『葛根廟』)

「キビ」とはコーリャンのことである。一緒に逃げていた仲の良い同僚の一人は、頭から大量の血を流して亡くなったという。


ブスブスッと銃弾が体に食い込む音が
 やがて戦車部隊だけでなく、歩兵や軍用車も姿を現した。当時、国民学校の4年生だった大島満吉は、以下のように述懐している。

〈日本兵が助けにきてくれたのかと思ったら、ソ連兵だったのです。私の背中のすぐ後ろで、日本人に向けていきなりダダダッと自動小銃を発射しました。ギャーという悲鳴、ブスブスッと銃弾が体に食い込む音…あっという間に30人ぐらいが殺されました〉(「産経新聞」平成27年11月6日付)

我々一行は非戦闘員だ。撃たないでくれ!」
 グループを率いていた興安総省参事官の浅野良三は、白旗を用意してソ連軍に向けて掲げた。伝えられるところによると、浅野は、


「我々一行は非戦闘員だ。撃たないでくれ!」

 という意味の言葉を叫びながら、戦車に近づこうとしたという。

 しかし、そんな浅野の身体を無数の銃弾が襲った。浅野は射殺された。

 戦車の数は10台以上に及んだ。土煙を上げながら、轟音と共に縦横無尽に走り回る。人々は逃げようとするが、身を隠せるような建物などもない。


「かあちゃん!」

「助けて」

 そんな声があちこちから聞こえてくる。ソ連兵は「マンドリン」と呼ばれる自動小銃を乱射した。わずかな兵器しか持たない日本側には、反撃する力もなかった。当時、国民学校の1年生だった川内光雄は次のように語っている。

〈私は、当時三十二歳だった母に抱かれ、大きな溝に転がり込むように逃げました。左肩に銃弾を受け、「痛い」と振り向いたとき、すでに母は頭に銃弾を浴びていました。「おかあさーん」「おかあさーん」と母の体を夢中で揺すりました。母は、ばったりと倒れました。背中にすがりつき、わんわん泣きました。妹ともはぐれました。(略)一晩中、母の遺体の横で、泣き明かしました〉(「西日本新聞」2005年7月19日付)



子どもも老人も……無抵抗な民間人が狙われた

 辺り一帯には、生きているのか死んでいるのかさえわからない人々の身体が無数に転がっていた。戦車はそれらを踏みつけながら走った。

 葛根廟の丘で行われたのは、無抵抗な民間人への明らかな虐殺であった。

 そんな攻撃は、午後になっても続いた。

 ソ連兵たちは倒れている日本人を見つけると、蹴飛ばしたり、銃で突いたりして生死を確認した。息がある者には銃弾を撃ち込むか、短剣を突き刺したりした。この時の様子を当時、国民学校の1年生で、馬車に乗せられていた守田隆一はこう記録している。

〈お父さんとお母さんが撃たれてしばらくすると戦車がとまり、何人ものソ連の兵隊が降りてきて、倒れている人や逃げていく人を片っ端から撃ち殺してゆきました。



 一人の兵隊がとうとう馬車まできました。そして、一緒に乗っていた病気のおじいさんを引きずり降ろすと、パァーンと頭を撃ちました〉(『朔北の学友』)

 子どもだろうが老人だろうが、ソ連軍の攻撃に見境はなかった。戦車のキャタピラに轢かれて膝から下をつぶされた人も、容赦なく殺されたという。

 子どもを亡くした母親であろう、精神に異常を来たしたと思われる女性の金切り声が辺りにこだました。


ソ連軍に包囲され、自決する人々も
 その後、戦車群はようやく葛根廟から去った。生存者の一人である小池うめは、その後に見た光景を以下のように述べている。

〈足元を見ないと、たくさんの死体で、何回も躓いてころびそうになった。



 転がっている人が手を上げていたので立ち止まってのぞくと、虚空の一点にカアーッと目を据えたままもう硬直した手だった。二十歳前後の若い女だった。その女の足もとに一緒に歩いていたのか十歳ぐらいの女の子の女の人と握っていた手が、はずれて可哀想に首から上は戦車に轢かれたのか完全に押しつぶされ半分土の中にめり込んでいた〉(『殺戮の草原』)


 生存者の中からは、ついに自決者が出始めた。ソ連軍に包囲されていると思われる状況下、重傷を負ってこれ以上の退避を諦める人や、ソ連兵からの陵辱を拒む女性、子どもを失って絶望に打ちひしがれた母親などである。

(子どもと同じ場所で一緒に死のう)


 と考えた母親たちは、無念の思いと共に次々と自ら命を絶った。自決の方法は、刃物か銃による事例が多かったという。

 その他、青酸カリで命を絶つ者もいた。「もしもの時のため」と青酸カリを持参していた者たちもいたのである。

子どもに青酸カリを飲ませて……
 自らの愛する子どもたちと心中を図る母親もいた。当時、28歳の広久政子は、2歳の長女・節子と8カ月の長男・克彦を連れていた。政子は戦後に綴った手記の中でこう告白している。

〈……私は決行した。腰のハンカチで坊やの細い首をぎゅっと絞めたのだ。『坊や、許して、我慢してね。母ちゃんもすぐ後から行くの。坊やばかりやるんじゃないから、苦しいけど我慢してね。御免なさい。御免なさい』。ちょっと力が抜けると、吹き返してくる息。長く苦しませたくないばっかりに、一生懸命に引いた。がっくりと首がくびれて、あゝ、遂に私の坊やは死んでしまった。八月十四日。克彦は僅か八か月の命を母の手に奪い去られたのだ。亡骸はどうすることもできないので、草の上におむつを敷いて寝かした。顔をガーゼで掩ってやった〉(『亡き子がわたしを呼ぶ』)

 政子は次に長女の節子に青酸カリを飲ませた。そして、自分もすぐ後に続いた。

 しかし、致死量に足りなかったのか、2人は死ぬことができなかった。


地元の農民は屍体から衣服や所持品を剥ぎ取っていった
 そのうちに、地元の農民などがこの混乱に乗じて略奪している様子が目に入った。暴徒と化した彼らは、鎌や包丁、棒などを持ち、屍体から衣服や所持品などを剥ぎ取っていた。

(見つかったら暴行される)

 そう思った政子は、瀕死の節子を背負い、他の数名と共にその場を逃げ出した。


 這うようにして山の裏手へと逃げ込んだ彼女たちの目の前には、断崖が広がっていた。政子は節子をおぶったまま、崖の縁から飛び降りた。

(どうぞ死ねますように)

 と祈りながら。


 しかし、今度も死ぬことはできなかった。落下の衝撃で身体に激痛が走ったが、命にかかわるような重傷ではないようだった。節子にも息があった。

 だがやがて、追い剥ぎの暴民たちが近づいてきた。政子は死んだふりをするしかなかった。

 暴民たちは節子を引き離し、政子の衣服をすべて剥いだ。それでも政子は我慢して死んだふりを続けた。

 暴民たちはやがて去っていった。以降に起きたことについては、政子の手記から引こう。

〈泥土の上に無惨に放り出されて、俯伏せに手足を伸ばしている裸の節子をそっと抱き起こしたら、ごろごろと咽喉が鳴って、大きな呼吸を一つ残して、こと切れた。どんなに苦しかったことだろう。『辛かっただろうね節子、御免なさいね、母ちゃんも行くから御免なさいね』。裸の腕にしっかり抱きしめた節子が、だんだん冷たくなってゆく。手も足も固くなってゆく。『あゝ、許して、許して』。抱いたまま草の上に身を投げて、私は身を悶えて泣いた〉(同前)

殺戮の翌日に、戦争は終わっていた
 葛根廟の丘は、屍体で埋め尽くされた。流れ出た血が、赤というよりもどす黒く、不気味に丘を染めていた。冷たくなった母親の乳房を吸い続ける赤ん坊の姿もあったという。

 前日の雨水が溜まっている窪地があった。その水溜りの周囲には、とりわけ多くの屍体が折り重なっていた。最期に水を求めて集まってきたのであろう。

 その水は血に染まっていたが、それを見つけた生存者たちは貪るようにしてその液体を飲んだ。

 翌15日に戦争は終わった。しかし、生存者たちはそんな事実を知ることもなく、さらなる逃避行を続けた。

深刻な飢えと渇き……ソ連兵を避け、草原や畑を歩いた
 葛根廟駅の付近にはソ連兵や暴民が多く、近づくことすらできなかった。避難民たちはいくつかの集団となって、満洲国の首都である新京まで歩くことにした。

 彼らは深刻な飢えと渇きに襲われた。ソ連軍兵士や暴民に見つからないよう、草原や畑の中を歩いた。

 そんな中、人のいない農家を見つけて、そこに隠されていた粟で命を繋いだ者たちもいた。彼らは粟を炊いておにぎりをつくり、皆で分け合って貪り食った。しかし、その中の一人であった大櫛戊辰によれば、次のような哀しき光景も見られたという。


〈「お母ちゃん、僕のごはんを取るなよ!」



 早く喰べ終った母親が、まだ我が子の手にある飯を取ろうとしていた。



「嫌だ! 嫌だ! 僕のだ!」



 背をかがめ握り飯を胸に抱き、頭を埋めて必死になって防いでいる。その光景は、浅ましいとか物の哀れとかいうよりも、鬼気迫る餓鬼道の世界だった。愛とか美とか、糞くらえだ。何が母性愛か何が仁道だ!〉(『殺戮の草原』)

疲労困憊の末にたどり着いた地は……
 8月といえども、夜になると身体が震えるほど気温が下がった。おぶっていた赤ん坊がいつの間にか死んでいたり、歩くことを諦めてその場に伏せる者もいた。

 子どもたちに対し、

「頑張って歩こうね」

「もうすぐだから元気だして」

 などと励ましの声をかける大人もいれば、何も言わない人もいたし、

「泣くな。うるさい! 誰かに見つかったらどうするんだ!」

 と怒りをぶつける者もいたという。

 地図も方位磁石もない逃避行、目印の少ない大地では迷うことも多かった。疲労困憊の果てにたどり着いた場所が、数日前に自分たちがいた所だとわかった時の絶望は計り知れなかった。

 ソ連兵や暴民に見つかった若い女性が、強姦される事件も複数起きた。


日本人に同情し、手を差し伸べた現地住民たち

 その一方、日本人に同情し、食事を分け与えてくれる現地の人々もいた。避難民たちはそんな時に「日本が戦争に負けた」という事実を知った。自分たちが虐殺にあった日の翌日に戦争が終わったことを知り、避難民たちは愕然とし、脱力した。

 結局、千数百人いた避難民の内、生きて日本に帰国できたのはわずか百余名であった。現地に取り残された子どもたちは残留孤児となり、それぞれ激動の戦後を過ごすこととなった。(文中敬称略)



〈参考文献〉
『葛根廟(新聞記者が語りつぐ戦争(5))』読売新聞大阪本社社会部
『葛根廟事件の証言』興安街命日会
『殺戮の草原―満州・葛根廟事件の証言』東葛商工新聞社

「文春オンライン」 https://bunshun.jp/




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■終戦直後の日本人引揚者を襲う朝鮮人たち…「竹林はるか遠く」

朝鮮人の男たちが、藪の中へ女の人たちを引きずっていくのを見たし、若い女性に乱暴しているのも見たわ(111頁)。

彼ら(朝鮮人)は悦楽を求めて人々の間をよろよろ歩き、そして娘たちを見つける度に外へ引きずり出した。たびたび女たちの悲鳴が響いた。(118頁)。

また、朝鮮人が、日本人を殺したうえで金歯まで抜いている記述もある(129頁)。







■通州事件…盧溝橋事件発生から3週間後の1937年7月29日
北平(北京)東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した■



『通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)-日本人皆殺しの地獄絵-』

★「通州事件 目撃者の証言」 (自由社ブックレット5) より 藤岡 信勝 (著) 自由社; 初版 (2016/8/7)

夫を生きたまま腹を切り裂き…「これはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろ」…そうして、その妻である妊婦の腹を切り裂き胎児を取り出す。

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

目玉を抉り取ると今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。

そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。

ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。そしてそれだけではありません。別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。

このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。


1937年 通州事件(つうしゅう)中国冀東保安隊による日本人虐殺事件。被害者約200名
  ・婦人は24時間強姦されたあげく鼻や喉に針金をつけられ殺害現場まで引き擦られる。
  ・旭軒では17~40歳の女性はことごとく強姦され
   陰部を銃剣で刺さたもの、口中に土砂を填めてあるもの、
   腹部を縦に断ち割つて等にて惨殺。
  ・錦水楼では女性達は手足を縄で結ばれ強姦され、斬首。
  ・男は目玉をくりぬかれ、上半身は蜂の巣の様
  ・子供は手の指を揃へて切断され惨殺
  ・南城門では腹部の骨が露出し、内臓が散乱
  ・首を縄で縛り両手を併せて針金通し一家六名数珠繋ぎにして引廻し惨殺。












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