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「南京大虐殺」は中国軍の仕業だった 南京入城時の内外紙の報道から検証した本当の歴史




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中国江蘇省の「南京大虐殺記念館」が2017年12月14日、リニューアルを終えて一般公開を始めた。

 しかし、産経新聞の河崎真澄記者の報道(2017.12.15)によると、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された朝日新聞の本多勝一元記者らの写真と資料が撤去されていたことが分かったという。

 河崎記者は日本軍が朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言報道が「虚偽だった」と朝日新聞が認めたことなどから、同紙の過去の報道の信頼性に疑念をもたれる恐れがあると判断した可能性があるとしている。

 一方、習近平主席が2015年の公式訪英時、エリザベス女王主催の晩餐会で「日本侵略者の暴行を暴く記事を発表した」などと英国人記者を称賛して中英の友情物語として紹介したことがある。


 ところが、岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)氏の調査で件の記者は南京に行っていなかったことが判明した。筆者はこの失態の影響もあるのではないかと思料している。

 嘘は大きければ大きいほど愛国心が強い証とされた「愛国虚言」ゆえか、本多氏のルポルタージュ「中国の旅」(1971年)以来、「南京大虐殺」は拡大の一途をたどり独り歩きしてきたが、展示品の撤去や事実を確認しない虚偽の紹介は、矛盾の露呈ではないだろうか。




そもそも「南京事件」とは何か

 支那事変(日中戦争、日華事変とも呼称)は、北京近傍の盧溝橋事件(1937年7月7日)で始まり、3週間後の29日には日本人居住地を守っていた中国の守備隊が反乱を起こし、250人余の猟奇的殺害、処刑を行う通州事件が起きる。8月9日には上海に拡大した。



 「中国に深入りするのは泥沼に踏み込むようなものだ」と不拡大を主張していた参謀本部の第1部長石原莞爾少将や慎重論の米内光政海相も堪忍袋の緒を切らし、作戦を限定する方針のもとに上海への出兵に同意する。

 9月にかけて2個師団強(第3・第9師団、1個支隊)が松井石根大将を総司令官とする上海派遣軍として派遣された。

 他方、蒋介石の中国側はドイツから招いた将軍の指導下にチェコ製機関銃を配備するトーチカを構築して、75個師団(約75万人)の大兵力を布陣していた。

 日本側は苦戦を強いられ、11月には予備役まで招集した第10軍(第6・第101師団、1個支隊)を増派、北支から第16師団も転用して上海派遣軍に編入し、中支那方面軍(司令官松井大将)を編成した。


5個師団基幹でも総兵力は約7万人で、国民党軍の10分の1以下でしかなかった。

 蒋介石は住民を盾にする戦術を採り、住民を巻き添えにしたくない日本軍は至る所で思わぬ抵抗を受け、20キロを進むのに1か月余を要した。

 その後の南京までの三百数十キロの追撃が30日であったことからも、上海戦の激烈さが分かる。

 日本軍が南京攻略戦を開始したのは12月8日である。蒋介石は前日に南京を脱出する。


 松井方面軍司令官は9日1600に翌日正午までの停戦命令を出し降伏を勧告するが返答なく、10日1300に攻撃を再開した。

 日本軍の攻城に耐え切れず南京防衛軍司令長官の唐生智が12日夜脱出すると、13日早朝に南京は落城する。その後城内の掃討戦を行い、17日に松井司令官を先頭に入城式を行う。

 日本軍の意向もあって、12月23日には早くも南京市自治委員会が成立し、翌1938年1月1日を期して発会式を挙行している。

 城壁上に上がった陶錫三会長は城下に集う民衆に対して「ここに敵の主都は甦生へのスタートを切った」と宣言する(「アサヒグラフ」昭和13年1月26日)。

 「南京事件」と言われたものは、米人宣教師たちが後々の布教のために、「城内における日本軍の暴行」をでっち上げ、国際世論や南京市民の支持を得るプロパガンダであったとされる。

 従って、城内の暴行報告は日本軍の南京入城(12月13日)から翌38年2月上旬までの約6週間であった。

 しかし、この間の暴行報告を見ても強姦、掠奪、放火などで数も多くなく、虐殺と思われるような事象は見られない。


事実、南京戦以前は100万人いた市民の多くは戦火の拡大と共に脱出した。

 残った20万人もドイツ人ジョン・ラーベを長とする国際委員会が設定した安全地帯(安全区や難民区などの呼称もあり、皇居前広場の約4倍)に収容され、安全区外の城内にいる市民はほとんどいない状況であった。

 しかも、城内の人口は日本軍の入城後も減ることはなく、2月頃は25万人と推定されるまでになっていた。

 この時点で南京市民虐殺30万人説は成り立たず、「南京大虐殺」の虚構は崩れ去る。


 しかし、大虐殺は「あった」派は満足せず、何時しか上海戦から南京攻略に至るまでとしたり、南京攻略戦以降の数か月にわたる期間などとするように変化させていく。

 また、歴史家で「日本『南京』学会」理事でもある冨澤繁信氏は、大虐殺の出発点となった6週間内の「南京安全地帯の記録」を丁寧に翻訳・研究し、安全地帯の記録で「兵士」と書かれているのを一方的に「日本軍兵士」とする恣意的誤訳などを指摘している。





本多氏『中国の旅』での記述

 日本軍が南京に近づく状況を本多氏の『中国の旅』は、「ここに至るまでに、すでに膨大な数の住民が殺されています」と書いている。

 日本軍が入城すると、10万人以上いた蒋介石軍の高級将校は家族を連れ、また主な将校らも北側の2つの門から逃げ出し、門を閉め外から錠をおろして遮断する。

 そこに大衆が押し寄せると、「日本軍は機関銃・小銃・手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、餌として食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる・・・大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」。

 日本軍は「二つの門を突破して、南京城外へくりだした。長江ぞいに下流(北東)へ、・・・と虐殺をすすめ、さらに南京城北7キロの燕子磯では10万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追い出しておいて、機関銃で皆殺しにした。・・・このときまでに、南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」と記している。

 本多氏に語る姜根福氏は「アヒルがたくさん浮いているかのように、長江の水面をたくさんの死体が流れていた光景が、今でもはっきりとまぶたに浮かびます」と語る。

 続けて、「虐殺は大規模なものから一人、二人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた。紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こうして歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで2カ月ほどつづけられ、約30万人が殺された」と語るのである。


このわずかな引用でも異常な殺し方が見られるが、姜が伍長徳さんから聞いた話として次のような記述がある。

 「(日本兵は)逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた」

 「・・・下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と皮が離れたりしていた」

 「(化学工場では)強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食った」


 残酷な殺し方が出てくるが、日本人にはなじめない方法ばかりである。

 中国の古典『資治通鑑』にはこうした殺し方が記述されていると言われ、正しくこれらは中国4000年の歴史でしかないようだ。

 なお、南京は幾度も事変に見舞われ、その度にこうした殺戮が繰り返された都市でもある。



ごまかしに終わった藤岡氏との誌上討論

 「週刊文春」(2014.9.4号)が「朝日新聞 売国のDNA」で、「本多氏は事実とかけ離れた『南京大虐殺30万人説』を流布させた人物だ」として、上述の「歴史上まれに見る惨劇・・・」を引用したうえで、藤岡信勝拓殖大学客員教授の「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」とのコメントをつけていた。

 このコメントに対し、「週刊金曜日」編集部から「週刊文春」編集部に「公開質問状」が届く。

 両者の意を受けた両編集部が相談した結果、誌上での公開討論を5回行うことになるが、藤岡氏の第1信に対する本多氏側の「週刊金曜日」からは本多氏とA記者が対談する変則的な形の第1信が届く。

 これでは2対1の討論で、しかも討論相手の本多氏の発言は10%位(全5信の文字数6000字中の比率)でしかないという。


藤岡氏が「本多氏との誌上討論には同意したが、正体不明の『A記者』なるものと討論することを承諾した事実はない」から「心底驚き、呆れた」「卑怯であり卑劣である」「責任逃れ」だと詰るのも頷ける。

 平行線というか不毛に終わったように、日中間の最大の歴史戦は南京事件である。

 当時、南京に派遣された特派員は朝日新聞約80人、東京日日(現・毎日)新聞約70人、同盟通信社約50人など、総計200人超とみられ、また「アサヒグラフ」などの写真報道も盛んに行われた。

 こうした資料が「南京事件」を全くと言っていいほど扱っていないのは、そもそも事件は「なかった」という最大の傍証ではないだろうか。


 筆者がJBpress『欺瞞にみちた創作か、本多勝一氏の「中国の旅」―「柳条湖」をルポルタージュで「柳条溝」とした顛末から読み解く』に見たと同じく、当時の史料や関係者の発言などよりも中国側が長年にわたってシナリオを練り脚色した言説を信じるという「本多ルポルタージュの破産」(殿岡昭郎氏)ではないだろうか。




記者たちは真実の報道を怠ったのか

 南京城を陥落させるまでの数日間は城外で激戦が続くが、入城後に市民を虐殺したという報道はほとんどない。

 20万人と言われた市民のほぼ全員が安全区に避難し、安全区以外の城内外にいたのは中国の兵士だけであったとみられているからである。

 石川達三など一部の作家が日本兵士の悪逆非道ぶりを見たように東京裁判前に新聞に書いたが、後に「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。・・・(自分が以前書いた)あの話は私は今も信じてはおりません」と否定している。

 当時の各新聞やアサヒグラフ、支那事変画報(朝日版、毎日版)などが報道している内容は、平和な日常が返ってきたという印象の記事や写真がほとんどである。

 しかし、8年後の南京裁判と東京裁判で、突如として20万とも30万とも言われる虐殺を日本軍がやったとして被告席に立たされる。

 戦闘に関わった万を数える将兵や当時現地で取材したほとんどの記者たちも、初めて聞く話に驚き、狐につまされた感じであったと述べている。


前述の通州事件はたった1日の出来事で、記者らしい記者もいなかったが、翌日からは各紙が報道した。

 一方、6週間にもわたった南京戦では200人を超す内外記者・カメラマン、作家・画家、内外の外交官などが居合わせながら、誰一人として「虐殺」など語らなかったのだ。

 松井石根・中支那方面軍司令官は入城に先立ち9日、唐生智・南京防衛司令官あてに降伏の勧告を行っている。

 主旨は南京には歴史遺産が多くあり破壊するに忍びないし、また罪のない民衆が傷つくおそれがあるので南京を開放せよというものであった。


 しかし、指定時刻になっても南京城からは何の反応もなく、勧告を無視したので攻撃命令が発せられた。日本軍は激しい攻城戦を繰り広げながら包囲網を確実に狭めていった。

 南京を逃れて重慶に政府を移転した蒋介石さえ、内外への宣伝と支援要請のため開いた300回もの記者会見で「虐殺」には言及していない。

 のちに政権を取る毛沢東も「自分が政権を取れたのは皇軍のお蔭」とは述べるが、虐殺非難など一切しなかった。

 「虐殺」ほど世界を驚かし、同情を誘い支援要請に好都合な宣伝であろうに、「一切しなかった」、いや「できなかった」のはなぜか。答えは言うまでもないであろう。




暴虐を働いたのは支那兵だった

 1937~38年の日中戦争当時、蒋介石や国民党軍の行動を実見した米国人ジャーナリストのフレデリック V. ウイリアムズは、『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実』(田中秀雄訳)で、蒋介石の国民党が米国を巻き込んで、残虐極まる中国軍を糊塗して、悪逆非道の日本軍とするプロパガンダ大戦略を練り展開する状況を記している。

 本多氏の「中国の旅」は、中国にとっては「飛んで火にいる夏の虫」を捕えた場外延長戦ではなかったのだろうか。

 宣伝に長けた中国共産党のプロパガンダで、仕組まれた成果は「南京大虐殺記念館」の建設(1985年)にも繋がっていったのであろう。

 大阪朝日新聞(12年12月10日付)は、「負傷兵締め出し」「非人道極まる支那軍」の見出しで、ニューヨーク・タイムス南京特派員の9日の報道を転載している。



日本軍に圧迫されつつある支那兵が化学戦研究所や金陵公園内の政府要路の大人たちの広大美麗な邸宅に放火しているというのである。

 同時に、中国人負傷兵が城内に入って中国軍から手当てを受けるのを締め出すために門を閉ざしたと伝える。

 それどころか、城内で治療を受けていた負傷者までが城外に追い出され、自力で城壁を迂回して揚子江へ出るか、野垂れ死にする以外にない状況に置かれたとの報道である。

 日本軍との城外での熾烈な戦闘の一方で、支那軍自身が自国民や負傷兵士を手当てするどころか、死に至らしめている状況を作り出していたのである。


 同紙はまた、「狂ふ支那軍の大破壊」「外人の軍事専門家呆れる」の見出しも掲げ、中立国の軍事専門家がニューヨーク・タイムス南京特派員に語ったことを報道している。

 それによると、「日本軍の空襲砲撃の与えた損害は殆んど軍事施設に限られてをり、これを全部合わせてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にもたらぬであろう」というのである。

 「支那軍は退却に当たり、不毛の原野や残煙立ち昇る廃墟を後に残して、これを日本軍に占領させた方が、ただ空しく退却するよりは、彼らの威信を高めるものだと信じてゐる」からだという。

 そして「今や日本軍の進撃を前に奥地に殺到する避難民は数百万に達してゐるが、支那政府が彼らを救済しようとしても何事もなしえぬ今日、彼らは如何にこの冬の衣食住を得んとするか、これは想像に余りあるものがあらう」とも述べる。

 日本軍の手の届かないところで、南京市民や負傷兵たちがほかならぬ中国軍によって死に追いやられている状況を遺憾なく示していたのである。

 このように、中国政府や中国軍は、市民たちをあっさり棄民として見捨て、われ先にと安全なところに逃げて行った。

 日本軍が入城した時に見た死体などの光景は、中国軍が自国の市民を死に追いやった姿であったのだ。

 姜根福が語った「南京城内も合せて約20万人が殺されたとみられている」というのは、中国軍の仕業であったことが図らずも証明されるのである。


全体的に平穏な南京城内

 同盟通信社の前田雄二記者は開城と共に入城するが、「まだ戦闘は終わってはいない。城内の中国軍は統制を失ってはいたが、各要所に立てこもって一歩もひこうとしない部隊であった」と相手のタフネスについてもしっかり記録している。

 そして「浅井、祓川、高崎などのカメラは、この市街戦をとり続けた」(『戦争の流れの中に』)と書いている。このように、城内の戦闘状況を撮りつづけていた同盟通信社のカメラマンだけでも3人がいたのである。

 当時の新聞などは戦闘状況を報道しているだけで、「南京事件」を報じていなかった。先ほど述べたように、むしろ退却する中国軍の悍ましい状況を報道している。

 当時のアサヒグラフなどの写真を見ても、大人も子供もにこやかな顔の写真が多く、日本軍の入城を歓迎したという話はあながち嘘でもなかったことが分かる。


 そうした中で、蒋介石の宣伝戦に協力する外国人(特に米国人宣教師など)や外国メディアが外電で針小棒大に事件を仕立てて報じたわけで、実際に戦争に関わっていた将兵や数百人もいた報道記者たちにとっては、初めて耳にすることで吃驚仰天以外の何物でもなかったというのである。

 戦後の中国共産党は、戦前・戦中の報道や東京裁判での判決などをベースに、日本に対し三戦でゆさぶりをかけているわけで、吟味なしに被災者たちの声を直接伝えることは、共産党の広報員になったも同然ではなかろうか。

 今日においても日常的に、自己正当化や数値の操作などは共産党が得意とするところである。

 南京の事象を日本軍の暴行として報道する外国人教授や米国人宣教師たちはどこにいたか、主として安全区に避難していた。

 危険地帯を歩き回っている記者やカメラマンらの目と、安全区に保護されている欧米人の目と、いずれが信ずるに足るというのだろうか。



 午後は残敵掃討戦になる。

 「敵は陣地を放棄する時は建物に火を放つので、黒煙がもうもうとあがる。砲火と銃声がひびきわたり、市内には凄愴の気がみなぎった。住民の巻きぞえをくうものもあり、中国軍の遺棄死体は多数にのぼった」と前田記者は記す。

 また「多くは兵服を脱いで住民に成りすました」とも述べている。

 前田記者は13日から15日にかけ、何回となく南京城内を車で見て回っている。旧支局が安全区内にあったということで、15日には安全区に入っている。


「店はまだ閉じていたが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ。私は戦争で荒れた心が和むのを覚えた」という。



 報道写真からもそうした情景をみることができる。

 14日の状況について、東京朝日新聞(12月16日付)はどういう報道をしていたであろうか。

 「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くと、もう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」


 しかし、当然のことながらこの前後にも小競り合いの戦闘は継続しており、16日には日本兵が捕虜を銃剣で処刑している場面に遭遇する。

 その後、下関の挹江門に回ると「まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている」場面に出くわす。

 また他の場所では銃で処刑しているところも見ており、別の記者が日本の兵士に勧められて中国兵を射殺もしている。

 翌17日が入城式で、約100人の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一氏などもいたという。

 翌日、再度城内を車で走ると挹江門の死体はすべて取り除かれていたが、護送中に反乱を起こした「夥しい中国兵の死体の山が(揚子江岸に)連なっている」のを目撃している。



 市民は安全区に保護されており、決して市民の死体などではない。

 戦いの相手であった国民党が発刊した当時の国民党軍の行動記録にも不法殺害や虐殺などの字は見出せない。

 前田記者たちは、同社の記者とは言うまでもないが、他の新聞社の記者らとも情報交換しており、自分一人の目で見たことではなく、南京戦場のあらゆるところから何百人もの記者らが見たり聞いたりした言行をベースに書いている。

 前田記者が城内を実見した状況や当時の朝日新聞が報道した内容、また国際連盟での中国代表であった顧維均等の発言・討議と、宣伝戦を得意とする中国共産党の息のかかった人物から本多氏が30余年後に聞き書きした内容と、どちらの信憑性が高いかは一目瞭然ではなかろうか。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55155







欺瞞にみちた創作か、本多勝一氏の「中国の旅」
「柳条湖」をルポルタージュで「柳条溝」とした顛末から読み解く






中国は2017年に「南京大虐殺記念館」の10年ぶりの改修を終えリニューアル・オープンした。

 記念館は鄧小平の「愛国主義教育を推進する」という指示の一環として1985年に初めて建設された。

 敗戦直後の南京や東京での裁判でこそ南京事件が取り上げられたが、あり得ない話だということもあってその後はほとんど忘れられていたと言っても過言ではない。

 これを中国の愛国主義教育に結びつける発火点とみられるのが、朝日新聞記者の本多勝一氏による「中国の旅」のルポルタージュ(取材1971年6~7月)で、同年8月から12月まで全40回にわたって同紙に掲載された。




 この旅は中国共産党中央委員会が招待し、「中国各地を引き回し、共産党がお膳立てした『語り部』に日本軍によって受けた『被害』を本多に語らせた」(藤岡信勝「日本虚人列伝『本多勝一』」(『正論』平成30年2月号所収)ものである。

 ルポは満州事変の発端となった柳条湖から始まる。

 本多氏は1960年代後半からベトナムでの取材を始めるが、その際体制側のお膳立てや協力で取材をするようになる。

 こうした取材形式について、本多氏自身が「『取材』ではあり得ない。しいて分類すれば『儀式』に近いだろう。儀式の中では、民衆はホンネを語らぬものだ。タテマエだけを聞いて歩いて、あたかも自由な取材であったかのようなルポを書くわけにはゆかぬ。それではいわゆる〝盲従分子″になるだけであり、ジャーナリストの自殺行為になろう」(『ベトナムはどうなっているのか?』)と述べる。

 「中国の旅」は正しく「自殺行為」を行ったわけで、出だしから混乱がある。


ルポで現地を見なかった?

 本多氏は日本人の理解と異なるのではないかなどの批判を受けるたびに、あくまでも現地人が語ったことを筆記したもので、自身の見解ではないということを主張してきた。

 「歴史上の『現場』は、生存者の記憶の中に具象として直接生きていますからね」と述べる通りである。

 そうすると、事件が起きた場所の名前など間違うはずもないであろう。

 ところが本多氏が撮った写真の立て札には「柳条湖事件」と明記されているが、説明の中国人は「九月一八日、日本軍はみずから柳条溝の鉄道を爆破したのです」と語ったのだ。


 筆者が見ている文庫本『中国の旅』(第21刷発行)では、「注」で「柳条湖は日本で長いあいだ『柳条溝』と誤記されてきた」として、江口圭一氏の著書や同氏の朝日新聞(1986年9月11日夕刊)寄稿文を参照として挙げている。

 江口氏の朝日新聞記事では、中国遼寧大学の徐建東・王維遠による論文「九一八事件肇事地名考」(『遼寧大学学報』1981年第二期)で、「柳条溝が誤りで、柳条湖が正しい」ことが確認されたとしている。なんと回りくどい訂正であることか。

 ともあれ、1981年に中国人が確定するまでは「柳条溝」で通っていたと言わんばかりであるが、日本人の先行研究があることに言及しないのは、江口氏も本多氏も不誠実である。

 日本近現代史の研究者である島田俊彦・武蔵大学教授は1967年(昭和42年)、事件発生地の本来の地名が「柳条湖」であることを知り、1970年(昭和45年)に改めて「柳条湖事件」の呼称を提唱している。

 本多氏が連載2回目に掲載した写真の立て札「日本軍国主義侵華的鉄証」には明瞭に「柳条湖事件」と書いてある。

 当時は日本陸軍が侵略戦争を進めていったとする「十五年戦争論」の研究者が優勢で、防衛庁(当時)の史料などを用いて史実の多様な側面を考究しようという島田教授の研究を江口氏も本多氏も無視したのであろう。




ちなみに、江口氏の『十五年戦争の開幕』(「昭和の歴史」第4巻)によると柳条溝は3か所(①柳条湖の北北東約24キロ、満鉄線から東へ約10キロ、②柳条湖の北東約38キロ、満鉄線から東へ約24キロ、③鉄嶺の近く)実在するそうである。

 中国人が話す暴行や虐殺の状況などを聞き書きしたというのであれば、立て札からも分かるように、現地は紛れもなく「柳条湖」でなければならない。

 それを「柳条溝」に改変し、しかも10年後に中国人の研究で確定したというのでは話が支離滅裂ではないだろうか。場所の確認は取材の「いろは」であろう。

 「柳条湖」に立ちながら「柳条溝」とした不自然な「中国の旅」のルポは出だしのこの一点をもってしても信憑性が疑われる。


満州事変や先行研究が教える「柳条湖」

 本多氏ともあろう人が、取材するに当って満州事変や先行研究に目を通さなかったのであろうか。

 それとも、日本陸軍が満州事変以降、支那大陸への侵略を続けたとする十五年戦争論に根差す、いわゆる東京裁判史観に立ち、日本の侵略性を印象づけようとすることからきたのであろうか。

 戦史を紐とけば、爆破実行部隊から奉天の特務機関及び独立守備第2大隊本部に届いた第一報は、「北大営西方鉄道線路支那正規兵ノ為ニ破壊セラレ、又三、四百ノ支那兵ハ柳条湖分遣隊ニ向ヒ攻撃前進中ニテ我ガ巡察兵ハ目下支那兵ト交戦中」となっていた。

 また、参謀本部が1935年に編集した『満州事変史』(一九三四~五年刊)でも「支那正規兵(兵力三、四百名)ハ突如柳条湖(奉天駅北方約7キロ半)付近満鉄本線ヲ爆破スルノ暴挙ヲ敢テセリ・・・」と書いている。

 こうした資料があり、また本人が現場に立ったにもかかわらず、ルポ第2回の表題を「柳条溝にセミしぐれ」としたのは意図的とみられても致し方ないのではないだろうか。

 ある論考では、満洲事変を策謀した一人である関東軍の高級参謀板垣征四郎大佐は奉天特務機関に陣取り、所要の部隊に出動命令を発して戦闘に入らせたとされる。




そのとき駆けつけてきた奉天総領事館の森島守人領事に対して、発生地点を何らかの理由で「柳條溝」と伝えたとされる。

 その結果、外務省やマスコミでは「柳条溝事件」として報道されたが、関東軍や日本陸軍、そして満州国は1935年頃までに「柳条湖」に訂正。一部では混用も見られたようであるが、1940年前後の報道は概ね「柳条湖」を使用するようになる。

 本多氏が主張する「歴史上の『現場』」に立てば、「柳条溝」はあり得なかったはずである。

 東京裁判では陸軍の謀略性を際立たせる意味からあえて混用された節があるが、やはり東京裁判史観がもたらした「柳条溝」であろうか。


デジャビューがもたらす倒錯

 「柳条湖」と「柳条溝」とは一字違いでしかないが、「溝」の使用は事件現場に関係ない別の場所を特定していることになる。

 例えて言えば、真珠湾(在ハワイ)を金門湾((在サンフランシスコ)と強弁しているようなものである。

 本多氏は「中国人が千何百万人も殺されたというような事実を、一般の日本人は噂ていどに、抽象的にしか知らず・・・」という。

 それは日本が「質と量をともなう記録として国民に知らせる努力をしたとは考えられない。これは日本のすべてのジャーナリズムの責任でもある」と述べる。

 他方で「中国人にとっては、『日本軍国主義』は抽象的な言葉や数字ではなく、自分の肉親が殺され、家を焼かれた具体的風景なのだ。どんな風景なのかを少しでも日本人が理解すれば、今の中国の警戒心も理解することができるであろう」という。

 こうした意識から、ジャーナリストとして、「中国の旅」で責任を果そうとしたわけで、大層な義侠心の持ち主でもあるようだ。



しかし、どうやら、本多氏は当時の日本の戦史や自社が発刊した新聞さえ読まなかったか、読んでも無視し、あるいは、中国側に立つことから日本の戦史や先行研究には無関心となったのだろうか。

 日本=犯罪者という図式のデジャビュー(既視感)かも知れない。

 こうして相手の話を鵜呑みにし、また自分の歴史観を織り交ぜる形のルポをしたとしか思えない。従って、日本人からしばしば疑問が呈されても動じることなく、どこまでも相手の言い分と釈明してきた。

 自社の新聞やアサヒグラフを含め、他社や外紙の報道などとの矛盾も突かないで、相手からの一方的な聞き取りで事実が確認できると思うほど浅薄なジャーナリストがジャーナリストと言えるのだろうか。


 正しい地名を後発の中国人研究で確定したとする事実から浮かび上がってくることは、単に「地名」の問題ばかりではなく、当時の原史料よりも何十年も後の脚色された発言を信じる倒錯である。




『中国の旅』は創作?

 既述の文庫本では、『瀋陽日報』新聞の編集者である董誠実という中国人が、「九月一八日、日本軍はみずから柳条溝の鉄道を爆破したのです」と語っているが、他の箇所が「注」に基づき「柳条湖」に訂正されているので、訂正し忘れた単純ミスと好意的に見ていいだろう。

 しかし、初めの出稿以来、中国人の説明者が「柳条溝の鉄道を・・・」と語った不思議というか疑問は依然として残る。ことここに至っては、「弘法も筆の誤り」では済まされないであろう。

 「画龍点睛を欠く」というが、中国人の言葉を正しく伝えなかったことと、自分の史観を入れ込んだとみられても致し方ないわけで、ルポルタージュの価値はゼロとなってしまったように思える。

 かつて中国社会科学院近代史研究所所長であった歩平氏が戦争の犠牲者の数字について「歴史の事実というのは孤立して存在するものではなく、それは感情というものに直接関係している。・・・単に一人ひとりの犠牲者を足していった結果の数字ではありません」(櫻井よしこ氏ほか『日中韓 歴史大論争』)と堂々と述べている。

 中国人の話には「感情」が織り込まれているというのである。



愛国のためには、どんなに間違った説明でも、大きな嘘でも許されるとする「愛国虚言」の国である。

 この歩平氏の感情を織り込む話や、キャプションを替えて偽の写真を南京の記念館に掲げるような中国であるから、本多氏のルポの計画を受けるにあたって、中国が被害状況展示や説明内容などをもっともらしく仕組んだであろうことは十分に想像される。

 こうして出来上がったルポ「中国の旅」は、日本人の振る舞いなどからは想像もつかない事ばかりに仕上がったのであろう。

おわりに
 「柳条湖」問題は、後に単行本となる20万字を超す『中国の旅』の中のたった数文字、いや極言すれば中国人が語ったとされた1字でしかなく、まさしく九牛の一毛である。


 本多氏が「柳条湖」の地名を奉天事件に絡んで「柳条溝」にしたことは万一許容するとしても、中国人が現地を他の場所と間違えて説明したというに至っては、その後に続く「平頂山」「万人坑」、そして「南京」や「三光政策の村」といった「中国の旅」全体を「信頼できない創作」にしてしまったのではないだろうか。

 殿岡昭郎氏は『体験的本多勝一論』のサブタイトルを「本多ルポルタージュ破産の証明」としているが、「中国の旅」は出だしから破産していたように思えるがいかがであろうか。


https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55078





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■終戦直後の日本人引揚者を襲う朝鮮人たち…「竹林はるか遠く」

朝鮮人の男たちが、藪の中へ女の人たちを引きずっていくのを見たし、若い女性に乱暴しているのも見たわ(111頁)。

彼ら(朝鮮人)は悦楽を求めて人々の間をよろよろ歩き、そして娘たちを見つける度に外へ引きずり出した。たびたび女たちの悲鳴が響いた。(118頁)。

また、朝鮮人が、日本人を殺したうえで金歯まで抜いている記述もある(129頁)。







■通州事件…盧溝橋事件発生から3週間後の1937年7月29日
北平(北京)東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した■



『通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)-日本人皆殺しの地獄絵-』

★「通州事件 目撃者の証言」 (自由社ブックレット5) より 藤岡 信勝 (著) 自由社; 初版 (2016/8/7)

夫を生きたまま腹を切り裂き…「これはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろ」…そうして、その妻である妊婦の腹を切り裂き胎児を取り出す。

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

目玉を抉り取ると今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。

そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。

ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。そしてそれだけではありません。別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。

このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。


1937年 通州事件(つうしゅう)中国冀東保安隊による日本人虐殺事件。被害者約200名
  ・婦人は24時間強姦されたあげく鼻や喉に針金をつけられ殺害現場まで引き擦られる。
  ・旭軒では17~40歳の女性はことごとく強姦され
   陰部を銃剣で刺さたもの、口中に土砂を填めてあるもの、
   腹部を縦に断ち割つて等にて惨殺。
  ・錦水楼では女性達は手足を縄で結ばれ強姦され、斬首。
  ・男は目玉をくりぬかれ、上半身は蜂の巣の様
  ・子供は手の指を揃へて切断され惨殺
  ・南城門では腹部の骨が露出し、内臓が散乱
  ・首を縄で縛り両手を併せて針金通し一家六名数珠繋ぎにして引廻し惨殺。












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