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朝鮮の王子を捕らえ、秀吉軍に献上した朝鮮民衆…秀吉軍は朝鮮民衆から大歓迎された

元和三(1617年)年朝鮮使節が十年ぶりに訪日した。目的のひとつは秀吉に
よる朝鮮の役における朝鮮被虜の「刷還」、つまり取り戻しであった。

しかし問題が生じた。誰も故国に帰りたがらないのである。

前回慶長12年の使節もそれを求めたが、帰国者は1200人「九牛の一毛を抜くが如し」
であった。

帰国を厭うのは、宋学的空論を重ねて相争う両班を頂点とした、徹底した身分
差別を喜ばないからである。
陶工や伎生など技芸の民のみならず、常民もみな日本にとどまりたがった。
清正没して衰運する肥後加藤家は、尊大な使節の意を迎えるべく領内定住朝鮮民衆の
「説得」を行ってようやく50人をそろえた。




■朝鮮の王子を捕らえ、秀吉軍に献上した朝鮮民衆…秀吉軍は朝鮮民衆から大歓迎された■

明への道案内を拒否した朝鮮に対し、英雄豊臣秀吉公は朝鮮征伐
の為に出兵、行く先々で朝鮮民衆は日本側に寝返り、土地の有力な
両班や地方長官をなぶり殺しにし、朝鮮の王子二人を捕らえて
日本軍に引き渡した。日本軍行くところ朝鮮民衆は大歓迎した。

しかし、その朝鮮の王子を捕らえた 加藤清正は 二人の王子を
厚く待遇し、二人の王子に 激しい憎悪を向ける、朝鮮民衆から
これらの王子を保護し、無事 朝鮮王へ送り届けた。

▲これは、そのときの二人の王子から 加藤清正 に送られた感謝の
手紙です。


朝鮮民衆に捕らえられた後、加藤清正に保護礼遇され無事帰国した
二人の朝鮮王子から加藤清正に送られた感謝状

◆「壬辰元年、七月二十四日に捕らられてから礼遇され、厚い保護を受け、
衣服糧食を与えられ、至れり尽せりの待遇を受けた。このたび関白殿下
に上申して釜石から京城に送り還された。その慈悲は仏のごとくである。
もし一行の者がこの恩を忘れ、後日、日本及び清正公に対し、僅かでも
背く者ようなことがあったら、人情を弁えぬ者であって、天智の神々も
これを知っているであろう」◆
  
                        紀州徳川家蔵


■だれも朝鮮に帰りたがらない朝鮮人捕虜■

●平成14年10月31日木曜日朝日新聞文芸時評…「歴史と他者」関川夏央より抜粋

荒山徹「故郷忘じたく候」(オール読物11月号)

 元和三(一六一七)年朝鮮使節が十年ぶりに訪日した。目的のひとつは秀吉に
よる朝鮮の役における朝鮮被虜の「刷還」、つまり取り戻しであった。
しかし問題が生じた。★誰も故国に帰りたがらないのである。前回慶長一二年の使
節もそれを求めたが、帰国者は千二百人「九牛の一毛を抜くが如し」であった。

帰国を厭うのは、宋学的空論を重ねて相争う両班を頂点とした、徹底した身分
差別を喜ばないからである。陶工や伎生など技芸の民のみならず、常民もみな日
本にとどまりたがった。清正没して衰運する肥後加藤家は、尊大な使節の意を迎
えるべく領内定住朝鮮民衆の「説得」を行ってようやく五十人をそろえた。










●平成14年10月31日木曜日朝日新聞文芸時評
「歴史と他者」関川夏央より抜粋●

荒山徹「故郷忘じたく候」(オール読物11月号)

 元和三(一六一七)年朝鮮使節が十年ぶりに訪日した。目的のひとつは秀吉に
よる朝鮮の役における朝鮮被虜の「刷還」、つまり取り戻しであった。
しかし問題が生じた。誰も故国に帰りたがらないのである。前回慶長一二年の使
節もそれを求めたが、帰国者は千二百人「九牛の一毛を抜くが如し」であった。

 帰国を厭うのは、宋学的空論を重ねて相争う両班を頂点とした、徹底した身分
差別を喜ばないからである。陶工や伎生など技芸の民のみならず、常民もみな日
本にとどまりたがった。清正没して衰運する肥後加藤家は、尊大な使節の意を迎
えるべく領内定住朝鮮民衆の「説得」を行ってようやく五十人をそろえた。







韓国の教科書は朝鮮に出兵した日本軍に抵抗する朝鮮人民の姿を
「義兵の活躍」の項で以下のように書いている。

「全国各地で儒生、農民、僧侶などが義兵を組織し、いたる所で倭軍を打ち破り、苦しめた。
義兵は自発的に立ち上がり、自分の家族と財産、そして村を守る一方、国家を守るために倭軍を迎え撃った。
義兵は、自分の地元の地理に明るく、地形を上手く利用することができただけでなくはなく、
自然条件に合った武器と戦術を活用したために、少ない犠牲で大きな被害を与えた。
当時の代表的な義兵将としては、郭再祐、趙憲、高敬命、休静、惟政などを数えることができる。」

朝鮮人は一致団結して豊臣秀吉の日本軍に抵抗したという記述ですが、果たしてそうだったのだろうか?

義兵は日本軍だけを攻撃したわけではない、
彼らは食料を強奪するために朝鮮の民衆や軍隊も襲った。
流民と化した朝鮮民衆は漢城さえ狙い、官軍に殺された。



余り知られていないことかもしれないが、
実際には日本軍の中には、これに呼応した朝鮮の民衆が多数含まれていた。

支配階級の両班は党派抗争に明け暮れていた。
「宣祖実録」に拠れば、
「人心怨叛し、倭と同心」するような社会状況の中で、明軍が朝鮮軍支援に駆けつけてみると、
「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民」といったふうだったとのこと。

また、江戸時代末期に日本で書かれた「征韓偉略」に拠れば、
秀吉の軍隊が京城に入城した時、兵士の半ばは朝鮮の民であったといいう。


また、韓国の教科書には、
「文化財の被害も大きかった。景福宮が焼け、実録を保管した書庫が焼失した」と書かれている。
しかし、火を点けたのは朝鮮の民であり、
秀吉の軍隊が京城に入る前に、既にそれらの建物は焼け落ちていたのである。

宣祖の京城脱出と同時に、
日頃から怨念を抱いていた民衆が略奪・放火を恣にしたのであり、
「虐げられた朝鮮の民衆にとって、外敵の侵入はまさに解放軍の到来と映った」との指摘すらある。
(日韓・歴史克服への道 下條正男 著 より)


韓国の教科書は、そうした点については完全に無視し、
もっぱら日本の悪と、これに対する挙国的な朝鮮人の抵抗だけを延々と書き連ねている。



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◆「宣祖実録」をみてみよう◆

▲「人心怨叛し、倭と同心」「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民」

朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に加担する者が続出した。
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であった。
、、、、と書かれているのだ。


▲実際、: 王が首都漢陽から逃げ延びるとき二人の王子は民衆によって捕らえられて
日本軍に引き渡されている。
漢陽死守を願う民衆を見捨てて、王や大臣たちがとっと逃げだした。


景福宮は、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっていた。
それは、民衆が兵乱と聞けばすぐに蜂起して、宮廷を襲い略奪したからだ。

奴婢は、秀吉軍を解放軍として迎え、
奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある。





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