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ミャンマーの急速な中国離れ、米国接近…かつて、イギリスからビルマの独立を目指す志士たちに、日本は支援を約束した。

ビルマ独立を目指す志士たちに、日本は支援を約束した。



■1.ミャンマーの急速な中国離れ、米国接近

 ミャンマーでは昨年3月の軍政終了と民主政府の誕生に伴い、中国離れと米国への接近が顕著になってきている。

 9月には北部カチン州で中国と共同建設していた水力発電用大型ダムの開発中止を表明した。ミャンマーの軍事政権時代に中国政府と契約を結んだもので、中国国有企業の投資総額は36億ドル(約2760億円)に上る。中国政府からミャンマー軍政幹部への賄賂が噂されていた。

 このダム建設を、テイン・セイン大統領は「自然景観を破壊し、地域住民の暮らしを破壊する」として、軍政府の決定を覆した。[1]

 11月30日には、米国のクリントン国務長官がミャンマーを訪れ、両国の急接近を見せつけた。

 ミャンマーが米国側につけば、中国はインド洋に覇権を及ぼすための足場を失うことになる。米国の中国封じ込め政策の大きな一歩である。中国のある新聞は社報で「米国は中国のアジアの仲間を一人ずつさらっていこうとする」と口惜しさをにじませた。[2]

 クリントン国務長官は、民主化運動の指導者アウンサン・スー・チー女史とも会談した。スー・チー女史は軍政時代に合計15年近くも自宅軟禁生活を続けていたのだが、こうした会談は、「3ヶ月前には考えられなかった」と述べた。


■2.「独立めざし 遠い日本で」

 アウンサン・スー・チー女史が民主化運動の指導者となっているのは、本人の一徹ぶりとともに、「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘であることも大きい。(ビルマは1989年に「ミャンマー」に国名変更した)

 アウンサンは、英国からの独立を目指していた1947年7月19日、テロリストによって暗殺されたのだが、毎年この「殉難者の日」が近づくと、ビルマ国営放送から次のような歌が流されてきた。[3,p2]

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独立めざし 遠い日本で 祖国の軍をつくるため
命を的に苦難に耐えて はかりごとをめぐらした
勇気あふれるアウンサンよ 英雄たちよ

・・・

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「遠い日本で」とは、アウンサンが英国からの独立のために日本軍から教育と軍事訓練を受けた事を指す。今回は、アウンサンら志士たちが、日本軍の支援を受けて、祖国独立のために戦った過程を辿ってみたい。


■3.日本は希望の象徴だった

 ビルマは、1824年以降、イギリスと三度戦い、その都度、領土を侵食され、1886年にはイギリス領インドの一州に併合されて、独立を失った。この年は日本では明治19年、欧米によるアジア侵略はこの頃に至っても着々と進んでいたのである。

 その後、20世紀初頭の日露戦争は、有色人種が白色人種を近代戦争で打ち破った最初の戦いとして、ビルマ人に大きな感動を与えた。後に、日本軍とともに英国と戦い、1943年8月にはビルマ国独立を宣言して国家元首についたバーモウは著書『ビルマの夜明け』の中で、こう書いている。

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 私は今でも日露戦争で日本が勝った時の感動を思い起こすことができる。私は当時、小学校に通う幼い少年に過ぎなかったが、その感動はあまりにも広く行きわたっていたので、幼い者をもとりこにした。

たとえばその頃流行した戦争ごっこで、幼い我々は日本側になろうとして争ったりしたものだ。こんなことは日本が勝つまで想像できぬことだった。

ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジア一国民の偉大さについて聞いたのである。それは我々に新しい誇りを与えてくれた。[4,p269]
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 独立を目指すビルマ人にとって、日本は希望の象徴だった。


■4.アウンサンと鈴木敬司大佐

 ビルマ人は独立を求めて、何度も立ち上がった。1930年の医師・サヤー・ヤンがリーダーとなった反乱では、山刀や棍棒しか持たない農民たちが、近代的な装備を持った植民地軍に対して、1年以上も戦ったが、結局、死傷者約3千人、逮捕者8300人、サヤー・ヤンを含む78人が処刑、という結果に終わった。

 1937年から翌年にかけては、ビルマ各地で労働者のストライキや農民の反乱、都市での暴動が発生した。イギリス植民地政府は強硬に弾圧し、整然とデモ行進する群衆に対しても発砲して、死傷者を出した。

「国の独立は穏やかな請願によって達成されるものではなく、武器をとって行動するしか道はない」と、独立運動の指導者たちは確信し、そのために外国の軍事援助を求めることを決定した。

 おりしも、まだ20代半ばの若者だったアウンサンは各地を飛び回って反英演説をしていたために、植民地政府からお尋ね者として全国に指名手配されていたので、国外に脱出させ、支援してくれる国を探させようという事になった。

 1940年8月、アウンサンは中国のアモイに渡り、外国との接触を試みたが、うまく行かず、そのうちに資金も底をつき始めた。

 そんなアウンサンを見出したのが、陸軍参謀本部所属の鈴木敬司大佐だった。鈴木大佐は読売新聞記者・南益世を装って、ヤンゴンに潜入し、独立運動家たちと接触した。その過程で、リーダーの一人、アウンサンがアモイにいることをつかみ、部下を派遣して東京に迎えたのである。


■5.「南機関」の誕生

 当時、日本は中国大陸の奥地に蒋介石政権を追い詰めていたが、米英がビルマから支援物資を送り込んでいたために、屈服させることができなかった。この「ビルマ・ロード」を封鎖するために、ビルマの独立活動家たちと手を組もう、というのが、鈴木大佐の考えだった。

 アウンサンは、ビルマが独立すれば、ビルマ・ロードは自然に閉鎖に追い込むことができる、そのためには自分たちの独立闘争を援助してもらいたい、と訴えた。

 アウンサンの主張を鈴木大佐は受け入れて、軍部や政界の上層部に説明し、その結果、昭和16(1941)年2月1日、「南機関」が誕生した。「南」は鈴木大佐の変名「南益世」からとり、また「南方」を意味した。

 その任務は、ビルマの青年活動家たちに軍事訓練を施し、さらに武器・弾薬を支給して、独立闘争を支援することであった。


■6.日本へ

 南機関の発足と同時に、アウンサンは南機関員・杉井満とともに、日本の貨物船に潜り込んで、ビルマに戻った。この時期には、日本との戦争に備えて、イギリス植民地政府の独立活動に対する弾圧・規制はかつてないほど厳しいものになっていた。

 姿を消していたアウンサンについても、全国で草の根をかきわけるような捜索が続けられていた。アウンサンは、入れ歯を含んで出っ歯で黒メガネの中国人に扮して、仲間のもとに戻った。そして独立運動の指導者たちに、日本との合意内容を報告し、行動計画を取り決めた。

 それは、各団体を大同団結させたうえで、イギリス植民地政府に対し反乱活動を起こせるよう、全国各地にゲリラ・グループを配置すること、そして、その指導者として青年たちを日本に送り込んで、軍事訓練を受けさせることだった。

 1941年3月10日、アウンサン自身が率いる第一次グループ5名が、日本に戻る貨物船に乗り込んだ。その後、数次に分かれて、合計27人の青年が日本に向かった。

 日本では、東京、京都、大阪など、各地を見学した後、海南島での軍事訓練を前に、箱根でしばし休養をとった。そこで世話をしてくれた女性の一人に、アウンサンは淡い恋心を抱く。杉井氏に手助けしてもらって、こんなラブレターを書いた。

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エイコサマ エ

ワタシハ トオイクニカラ ニッポンエ マイリマシタ アナタネ(原文のまま)コトガ ワスレラレマセン ドウカ オマチクダサイ  オモタモンジ

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 オモタモンジ(面田紋次)とは、アウンサンの日本名である。しかし、結局、彼はこのラブレターを渡すことはできなかった。20代半ばで、女性とのつきあいには不慣れだったし、何よりも心中には片時も忘れられない祖国独立への思いを抱いていたのである。


■7.「根性、勇気、それになによりも忍耐心」

 その後、27名の青年たちは、海南島にわたり、軍事訓練を受けた。ビルマ人にとって、銃などの近代兵器を手にするのは初めてだった。イギリス植民地政府はビルマ人の独立運動を警戒して、植民地軍のほとんどは、少数民族のみを採用していたからである。民族間の対立を巧みに利用して、植民地を支配するのが、英国流のやり方であった。

 軍事訓練の最初に、教官の中尉が、和英辞書を引きながら、英語でつっかえつっかえ訓示を行った。しかし、教官の言いたいことは、志士たちにはよく伝わった。

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 諸君が長旅をものともせずこの訓練所にやって来たのは、祖国独立のたたかいに加わるためである、みずからをなげうって祖国のために捧げようとする諸君の精神を、私は心から賞賛する。[3,p68]
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 教官は続けて、独立の戦いに役立つのは、精神力、勇気、それに軍事的な技術と知識だとして、気力、勇気をも増進させることができるよう指導していく、と述べた。これを聞いた志士の一人は、こう思った。

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 教官は体格がよく、押し出しも堂々としていたし、声はよく通り、しかも私たちの愛国心をかきたてるような訓示であった。私たち一同は、心に火をつけられたかのように体中鳥肌が立つほどの興奮を覚えた。そして、独立闘争のために命を捧げる決意を新たにしたのであった。[3,p69]
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 しかし、訓練の最初は、演習場の石ころやゴミ拾いばかりをさせられた。ようやく近代兵器を手に取れると思っていた志士たちはがっくりした。その様子を見たアウンサンは、兵舎の外に皆を呼び集めて、こう話しかけた。

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 われわれの支配者イギリス人たちは、自分たちの帝国は日が沈むことはないと豪語しているんだ。その大帝国を倒すのがわれわれの仕事だ。根性、勇気、それになによりも忍耐心がなければできないことじゃないか。

 今日の訓練は、われわれの根性と忍耐心を試したんだ。われわれビルマ人は、もともと根性のある民族じゃないか。こうして外国に来てもビルマ人のすばらしさを見せてやろうじゃないか。これぐらいのことでくじけるなよ。[1,p72]
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「そうだ、自分たちは根性を見せなければならないのだ」、そんな思いが志士たちの顔つきを変えた。


■8.ビルマ独立義勇軍の誕生

 1941年12月27日、軍事教練を終えたアウンサンらは、バンコクのビルマ人歯科医の家に集まった。タイ在住のビルマ人が200人ほども集まって、アウンサン一行を待ち構えた。すでに12月8日の日本軍の真珠湾攻撃によって、大東亜戦争が始まっていた。

 アウンサンは立ち上がって、聴衆に語りかけた。今までの反英独立闘争が失敗したのは近代的な軍事技術や武器がなかったこと、それを日本政府の援助で、手中にしたことを述べた。

「さあ、みなさん。祖国独立のために命を捧げる、この崇高なたたかいに加わろうではありませんか」とアウンサンが呼びかけると、「たたかうぞ!」「軍隊に入るぞ!」といった叫び声が会場を埋め尽くした。

 100人以上の人々が、ビルマ独立義勇軍の志願者名簿に名前を連ねた。それ以外の人々も、志願者募集、財務、留守家族保護などの仕事を手伝うことを約束した。その後、アウンサンは、厳かに宣言した。

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 今日ただいまより、われわれは身命をなげうって、おそれずまた退かず、祖国独立のたたかいに加わることを誓う。
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 全員が、アウンサンの誓いの言葉を唱和した。こうしてビルマ独立義勇軍が誕生した。







「南機関や鈴木大佐らの開放の真心」は、ビルマの人々の心に深い感銘を残した。

■1.「親愛なるビルマ1500万の民衆に告ぐ」

 ビルマ独立義勇軍がバンコクで出陣式を行ったのが、1941(昭和16)年12月31日。日本の第15軍とともに、バンコクから北西に向かい、インドシナ山脈を超えて、タイとの国境沿いの街モールメンを衝いた。

「ド・バーマ(ビルマ独立万歳)」を叫びながら進軍するビルマ独立義勇軍に、行く先々で志願者が合流し、モールメンに着いた時には当初の百人が千人ほどにも膨れ上がっていた。

 南機関の鈴木敬司司令官の演出もふるっていた。ビルマには古来から、1885年に滅亡したアラウンパヤー王朝の最後の王子がボ・モージョ(雷帝)と名乗って、白馬にまたがり東方からやってきて、ビルマを解放するという伝承があった。

 鈴木司令官は自らボ・モージョと名乗って、金モールの王冠に純白のロンジー(ミャンマーの伝統的な巻きスカート)を着用し、白馬にまたがって進撃した。伝承を重んずるビルマの民衆は、「ボ・モージョ来る」と、沿道に土下座して迎えたという。[1,p280]

 翌1942(昭和17)年1月22日、第15軍司令官・飯田中将はビルマの民衆に向かって次のような布告を発した。この布告はビルマ語に翻訳されて、ラジオ放送された。

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 親愛なるビルマ1500万の民衆に告ぐ。・・・日本軍のビルマ進撃の目的は、最近百年間の搾取と圧政を事とせる英国勢力を一掃し、ビルマ民衆を解放して、その宿望たる独立を支援し、もって東亜永遠の安定確保と世界平和に寄与せんとするに外ならぬ。・・・

 しかして勇敢なるビルマ独立義勇軍兵士よ、今こそは祖国の独立と栄光のために決起すべき秋(とき)なるぞ。必勝不敗の大日本帝国軍は諸士とともに進軍す。進め必勝の信念の下に。[2,p110]
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■2.ビルマ独立義勇軍の活躍■

 ビルマ独立義勇軍は通過する町や村で熱狂的に歓迎され、入隊志願者が続々と加わった。2月末頃にはおよそ5千人、3月8日のヤンゴン占領時には正規兵約1万人、便衣兵(制服を着ていない非正規兵)10万人に達したという。[2,p124]

 ビルマ独立義勇軍の活躍は、日本人の報道員も次のように絶賛した。

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(ビルマ独立義勇軍は)銃を執って皇軍の道案内役になって、国境を超え、ことに山蛭(やまびる)に悩まされつつ、道なきジャングルを突破して行ったタヴォイ(ダウエー)攻略においては、慣れた自然地形を利して、主力たる日本軍兵士も舌をまくぐらいの鮮やかな働きぶりを示した。・・・

なにしろビルマ一流のインテリ揃い、住民と同一の血を承(う)け、同一の言語を話すのだから、情報の蒐集はお手のものだし、道案内はいわずもがな、必要な物資のかりあつめ、治安の確保などには、偉大な効果を挙げた。(同盟通信社編『大東亜戦史 ビルマ作戦』)[1,p124]
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■3.「ドバマ(われらのビルマ)、ドバマ」

 ビルマ独立義勇軍が民衆にいかに迎えられたか、次のような一コマが伝えられている。

 2月末、国境から200キロほど内部に入ったシェンジンという町で、日本軍の先発隊らしき一隊が近づいてくる、という情報が流れた。駐留していた英軍兵士たちは、戦ってもとても太刀打ちできないと、その日のうちに退却してしまった。町は無防備のまま、取り残された。

 次の日の明け方、町外れから「ドバマ(われらのビルマ)、ドバマ」という叫び声が近づいてきた。兵隊が来るというので、町の人々は怖がって、家の扉を固く閉ざしていた。

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 やって来たのは町の人たちが思い込んでいた日本軍ではなかった。ビルマ独立軍の兵隊たちであった。先頭には旗をかざしたボ・ソオアウン(JOG注: 日本軍から訓練を受けた独立志士の一人)がいた。

 ボ・ソオアウンは町の人たちにていねいな説明を試みた。自分たちはビルマ独立義勇軍の一小隊である。町の人々を攻撃するためにやって来たのではない。平和な暮らしを守ろうとやってきたのだと。

人々はやっと安心して家の戸を開け、ビルマ独立義勇軍を見ようと表へ出て来た。多くの人たちが「ドバマ、ドバマ」と大声をあげて歓迎した。[1,p121]
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■4.ビルマ民衆の協力

 当時のビルマ人がいかに独立を熱望し、日本軍と独立義勇軍に協力したか、後に首相となるバーモウは『ビルマの夜明け』に次のような逸話を紹介している。

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 その間、英雄的行為も生まれた。その一つは戦時中のアジア人の間で、伝説のように語り伝えられたものである。サルウィン川での戦いの真っ最中、数人の日本人将校が、ビルマ人にボートで対岸に渡してくれるように頼んだ。船の通路は数カ所の英国側陣地からまる見えで、その射程距離にあったから、船を出すことは死ににいくようなものだった。

しかし4人のビルマ船頭が進み出た。二人の船頭と日本人将校が船底に伏せ、残りの二人の船頭はまっすぐ平然と立って櫓(ろ)をこいだ。船が川の中ほどに来て、岸からまる見えになった時、二人のこぎ手は弾雨の中に倒れた。

残る二人の船頭は一言もしゃべらず、騒がす、すぐに持ち場について漕ぎ出した。ちょうど船が対岸に着いた時、この二人も弾にあたって死んだ。これは例のない英雄的行為であった。日本の新聞ラジオは、ひろくこの実話を伝え、日本本土と東南アジア諸国で感動を呼び起こしたのであった。[1,p281]
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 こうした民衆の協力を得て、日本軍とビルマ独立義勇軍は、わずか2ヶ月後の3月8日にはラングーンを制圧、その後も快進撃を続け、5月末までには約5万の英印軍と、中国から支援に来ていた蒋介石の重慶軍約10万を、ビルマ領外に追い出した。


■5.「独立は他人がくれるものじゃないんだ」

 しかし、その後、日本軍とビルマ独立義勇軍の間に隙間風が吹き始める。第15軍司令官・飯田中将は、ヤンゴン占領後の3月21日、「できるだけ速やかにビルマ独立を実現できるようご努力されたし」との電報を南方軍司令官寺内元帥に送ったが、返ってきたのは「軍政を実施すべし」という指示だった。

 大本営は、簡単にビルマに独立を与えたら、軍事物資の調達もうまくいかず、作戦行動が制限される、という考えだった。ビルマ独立義勇軍の将軍の位置についていたアウンサンはこれを知って激怒した。「日本人がこういうことをつづけるなら、われわれは反乱を起こすしかない」とはっきり口に出した。

 それを知った南機関の鈴木敬司司令官は、アウンサンを呼んでこう話した。

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 もし、おれがお前の立場だったら、手に入りかけた独立を絶対に逃しはせんぞ。独立はどうすれば獲得できるか、歴史を見ればはっきりしている。独立は他人がくれるものじゃないんだ。自分で勝ち取らなければならない。だから、ビルマ人が独立を勝ち取るために反乱を起こすと言ったって、なにも不思議じゃない。[2,p134]
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 黙って聞いているアウンサンに鈴木司令官は話を続けた。自分が日本軍に銃を向けると、国家への反逆になってしまうから、それはできないが、そういう自分が祖国独立のために邪魔だというなら、この軍刀でまず自分を殺して、それから独立の戦いをやれ、と。

 アウンサンは、鈴木司令官がビルマにいる間は、日本に対して反乱は起こさないと誓った。


■6.鈴木司令官との別れ

 そんな鈴木司令官を、大本営は邪魔と考え、6月末に近衛師団司令部付陸軍少将として、内地に呼び返してしまった。ビルマ独立義勇軍はボ・モージョ(雷帝)こと鈴木司令官との別れを惜しんで、軍刀一振りと感謝状を送った。感謝状の最後はこう結ばれていた。

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 ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人をわれわれは末永くなつかしむ。将軍のビルマへの貢献も、いつまでも感謝される。たとえ世界が亡んでも、われわれの感謝の気持ちは亡びることはない。

将軍が日本に帰られたら、ぜひとも日本の天皇陛下や東条首相、そして老若男女に報告してほしい。われわれビルマ人の誠意、忠誠心、勇気、日本軍への協力、日本ビルマ間の友好への努力を----。[1,p282]
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■7.独立の喜び

 日本がビルマの独立を認めたのは、それから1年2ヶ月も経った1943(昭和18)年8月1日だった。遅きに失した独立ではあったが、民衆は熱狂した。独立政府の元首に選ばれたバーモウは、その光景をこう記述している。

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 それは言葉では言い現せないほど幸せな日々だった。人々は喜びに胸をふくらませて、いたる所で歌った。国民こぞってこれを祝うために、各地域社会を代表する委員会が設けられた。くる日もくる日も群衆がパゴダを訪れて灯明をあげ、花を捧げた。

僧たちは町中で振舞を受け、催物は果てしなく続いた。人々は集い、日本語で"万歳"を叫んで、日本に対する深い感謝を現わす決議をした。同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージが東条首相と日本政府に送られた。[1,p283]
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 この年の末、満洲国、中華民国、タイ、フィリピン、ビルマ、そして自由インド仮政府のそれぞれの代表者が東京で一同に会する大東亜会議が開かれ、アジアの自主独立と万邦共栄を謳った大東亜宣言が発表された。バーモウはビルマ代表として参加している。[a]


■8.「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」

 翌1944(昭和19)年3月、インド独立運動に点火しようと、日本軍とインド国民軍が合同で、北ビルマから東インドに進攻しようとするインパール作戦を始めたが失敗に終わり、敗走する日本軍を追って英印軍がビルマに戻ってきた。[b,c]

 この状況に、それまで日本とともに戦っていたビルマ独立の志士たちも分裂した。バーモウ内閣で国防大臣を務めていたアウンサン将軍は、敗北必至の日本と心中するわけにはいかないとして、日本軍に対する反乱に立ち上がった。

 バーモウは最後まで日本側について、終戦時には日本に亡命した。日本軍の訓練を受けた志士の一人ミン・オンは日本を裏切ることはしのびないと自決した。

 アウンサン将軍にしても、日本軍への攻撃に立ち上がった際、バーモウに長い手紙を書き、その中に「反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法」「日本軍のビルマ撤退が懸命な方法」「日本を責めない」等と書き送っている。[1,p290]

 戦後、鈴木敬司将軍が、ビルマに連行され、英軍によって軍事裁判にかけられそうになった時、アウンサンは「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」と猛反対し、釈放させた。


■9.「アウンサンの旗」

 日本の降伏後、ビルマはふたたびイギリスの植民地に転落した。アウンサンは植民地政府の一員となりながらも、粘り強く独立交渉を続けた。しかし、1947年7月、祖国の独立を見る前に何者かに暗殺されてしまう。

 その2年前に生まれていたのが、末娘アウンサンスーチー女史である。女史は来日して父親の事績を研究し、現在はその遺志を継いで、民主化運動の指導者となっている。

 ビルマが英国から独立を回復したのは1948年だが、その時の国軍の最高司令官ネウィンも、日本軍の訓練を受けた志士の一人だった。ネウィンはその後、クーデターを起こして政権を握るなど、長く支配者として君臨した。

 ネウィンは1981(昭和56)年、鈴木敬司司令官の未亡人、および南機関関係者6名をビルマに招き、ビルマ独立義勇軍生みの親として、ビルマ最高の栄誉である「アウンサンの旗」という勲章を授与している。

 ビルマ独立後に母国に戻ったバーモウは、その著書『ビルマの夜明け』でこう書いた。

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 もし日本が武断的独断と自惚(うぬぼ)れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの開放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本のために惜しむのである。[1,288]
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 確かに惜しむべしとは思うが、それでも「南機関や鈴木大佐らの開放の真心」は、ビルマの人々の心に深い感銘を残した。その真心からは、現代の我々にも学ぶ所があるだろう。


★メルマガ「国際派日本人養成講座」より★


http://blog.jog-net.jp/201201/article_4.html

http://blog.jog-net.jp/201201/article_5.html


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■ 中華網「安倍首相で日本がミャンマーに接近、東南アジアから形成されつつある中国包囲網」■


安倍氏が総理大臣に就任すると、閣僚の初の外遊先にミャンマーが選ばれた。日本は中国包囲に向け、中国西南部から攻勢に出ている。
中国はミャンマーで敗退を続けており、中国の西南地区の安全が今後脅かされ続けるだろう。中国網日本語版(チャイナネット)が報じた。以下は同記事より。

日本の副総理・財務省・金融担当相の麻生太郎氏がミャンマーを訪問し、両国の経済・貿易などの協力関係を強化することを表明し、
工業・司法・投資・文化・体育・電力・教育・医療・ヤンゴン市の交通インフラなどの提携について協議した。

麻生氏はまた、日本がミャンマーと共同開発するティラワ経済特区を視察した。
麻生氏は今回多くの課題を抱えてミャンマーを訪問した。

1つ目の課題は日本のミャンマーに対する大規模投資で、中国からの産業移転の準備をしている。
2つ目の課題は安倍氏のミャンマー訪問前の下準備で、日本・ミャンマーの戦略的パートナーシップを強化する。

麻生氏の訪問はまさに一石二鳥の効果を生み、念入りな心配りと言える。

軍政府による統治期間、ミャンマーは中国の「裏庭」とも呼べる存在だった。中国はかつて、ミャンマー最大の海外投資国であった。
しかしテイン・セイン大統領が米国への歩み寄りを決めると、中国の対ミャンマー3大投資プロジェクトに2つの問題が生じた。

1つ目は36億ドルを投じたミッソンダムの開発中止、2つ目は10億ドルを投じた銅山の開発中止だ。

また、ミャンマー軍の戦闘機はこのほど、カチン武装勢力への攻撃を口実に中国の領空内に侵入し、雲南省の民家を爆撃している。
まさにこの時に日本が隙に乗じてミャンマーに進出したのだ。

2011年から12年にかけて、日本とミャンマーの2国間貿易総額は8億2200万ドルに達し、前年度より6割増となった。
日本政府はまた日中関係が緊張状態を持続していることから、対中投資をミャンマーなどの東南アジアにシフトする方針を固めている。
これは日本の投資リスクを引き下げ、東南アジア諸国を援助し、日米主導の中国包囲網に加わらせることを目的としている。


ミャンマーは当時、英国の植民地支配に抵抗した。アウンサンスーチー女史の父、アウンサン将軍は日本軍の力を借りていたため、日本と密接な関係を持つ。

アウンサンスーチー女史は父の後を継ぎ、ミャンマーの政界に復帰しており、日米などの勢力を抱き込もうとしている。
安倍政権もこれに積極的に応じ、ミャンマー回帰により中国包囲網を形成しようとしている。両国は戦略的合意に至った。

日本がミャンマーで根を下ろした場合、中国の国境地方の政治環境が著しく悪化するだろう。
日中が尖閣諸島(中国名:釣魚島)問題で武力行使した場合、日本はミャンマーとともに中国の西南地区を脅かし、
フィリピンやベトナムが南シナ海で問題を起こすことを促し、中国を四面楚歌の状態に陥らせることができる。


また日本はASEAN各国に積極的に働きかけ、共同で中国に対抗するよう説得を進めている。
日本は今後、ASEAN+3(日中韓)において、中国を排斥するよう呼びかけるだろう。

中国は現在も依然として、ミャンマー政局の発展を静観しており、思い切った手段を講じていない。
事態の悪化を放任すれば、かつて中国の「裏庭」であったミャンマーが、中国対抗の最前線になる可能性がある。

2013/01/05(土)

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0105&f=politics_0105_009.shtml
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0105&f=politics_0105_010.shtml





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