【米国の全地域で中学校の教材として採択】…竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記…日本の敗戦直後、朝鮮人らが朝鮮半島から脱出しようとする日本人の女性や子供を迫害し、 性的暴行をほしいままにしたという内容が記された日本人作家の自伝的実話小説

竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記





1986 年にアメリカで刊行後、数々の賞を受賞。
中学校の教材として採択された感動秘話


邦訳が熱望されていた名著、待望の日本語版

大戦末期のある夜、小学生の擁子(ようこ・11歳)は「ソ連軍がやってくる」とたたき起こされ、母と姉・好(こう・16 歳)との決死の朝鮮半島逃避行が始まる。
欠乏する食糧、同胞が倒れゆく中、抗日パルチザンの執拗な追跡や容赦ない襲撃、民間人の心ない暴行もかいくぐり、祖国日本をめざす。


終戦前後の朝鮮半島と日本で、
日本人引き揚げ者が味わった
壮絶な体験を赤裸々に綴る、
息もつけぬ、愛と涙の
サバイバルストーリー


日本の敗戦直後、朝鮮人らが朝鮮半島から脱出しようとする日本人の女性や子供を迫害し、性的暴行をほしいままにしたという内容が記された日本人作家の自伝的実話小説が、米国の全地域で中学校の教材として使われていることが分かり、現地の韓国系市民らが強く反発するなど、波紋を呼んでいる。

問題の本は、日本人鉄道会社社員の娘で、1945年の日本敗戦時に北朝鮮の羅南から脱出したヨーコ・カワシマ・ワトキンズ氏が書いた
『ヨーコの話(So far from the Bamboo Grove:竹の森遠く)』。

1986 年に出版されたこの本は、第2次世界大戦で日本が敗戦した当時、11歳のヨーコと家族らがソウルと釜山を経て、日本に脱出する過程で体験した内容を記している。
ヨーコ氏は、脱出の過程で起きた韓国人らの日本人に対する無慈悲な追跡とテロ、脱出過程での苦痛と飢えなどを描写し、人々がばたばたと死に、性的暴行がほしいままにわれるのを目撃したと記述していると伝えられている。

▲この本は、2005年にフリーライターのユン・ヒョンジュ氏が翻訳し、出版社「文学洞内」から『ヨーコの話』という題名で韓国でも出版された。
 この件について、米日刊紙ボストン・グローブは最近の一連の報道を通じ、米国の全地域で中学校の教材として採択されたこの本に対し、一部韓国系生徒と保護者らが強く異議を唱えていると伝えた。


strong>著者について
【著者・監訳者】ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ(Yoko Kawashima Watkins)
1933(昭和8)年、青森で生まれる。生後六ヶ月で南満州鉄道(満鉄)に勤務する父に連れられ、家族で朝鮮北部の羅南(現在の北朝鮮・咸鏡北道清津市)に移住。
1945(昭和20)年、敗戦最中に母、姉とともに羅南を脱出、朝鮮半島を縦断する決死の体験を経て、日本へと引き揚げた。帰国後、京都市内の女学校に入学。働きながら学問に励み卒業すると、京都大学で英文学を学ぶ。卒業後、米軍基地で通訳として勤務していたが、結婚し渡米。アメリカの子供たちに日本文化を伝える活動をしていた。
1986(昭和61)年に自身の体験を描いた初の著書である本書『So Far from the Bamboo Grove』を刊行。
米国教育課程の副読本として採用され、多くの子供たちに親しまれている。
1998(平成10)年にボストン図書館が最も推奨する児童文学者(Literary Lights for Children)に選ばれ、アメリカの平和団体・ピース・アビー(平和のための修道の家)より、ガンジーやマザー・テレサ、ダライ・ラマも受けたという「The Courage of ConscienceAward」をはじめ、数々の賞を受賞。
現在も、講演活動などで全米だけでなく世界各国をめぐる多忙な日々を送っている。
他の著書として本書の続編にあたる『My Brother, My Sister, and I』がある。







■■■ この史実を歴史教科書に載せよう ■■■

敗戦直後の日本女性強姦についてはソ連兵が悪名高いが、実際には朝鮮人によるものがダントツで多い。

▲「水子の譜(うた)」上坪 隆-----ドキュメント引揚孤児と女たち-----
http://www.ebookjapan.jp/shop/book.asp?sku=60009096&genreid=10010

二日市保養所の資料は、六月十日の報告書 p183 "地域別と加害者" これは、2ヶ月分だけの記録…加害者の6割が朝鮮人だと示しています。

尚、記録に残っているのは堕胎手術を受けた女性だけで、前途に絶望して帰国船から日本を一目見ただけで身投げをした女性もたくさんいました。





引揚民間人を襲った 朝 鮮 保 安 隊 の略奪・暴行・殺戮の嵐

(一部抜粋)
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、
今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。
北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、
ついで 朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、
虐殺されている光景であった。
         (中略)
「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対する
ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。
娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
みなソ連兵を 朝 鮮 人 が案内したのだった。
部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。
一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
城津での惨状は言語に絶した。(中略) 朝 鮮 人 の 男女が数十人の団体でおしかけ、
干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
あげくは婦人の"提供"を要求されたという」
博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた

関連動画
終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ01
http://jp.youtube.com/watch?v=bDjPZXw0yHg
終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ02
http://jp.youtube.com/watch?v=aXPoy_5OFxY&feature=related




■ 飯干晃一 著「山口組三代目 田岡一雄自伝」(p194)(1971年初版 徳間書店)

▲昭和20年8月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。
人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
 一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。

「どないしたんや」

「おかあちゃんが、おかあちゃんが」

少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。

この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。

「ここにいるんやで。ええな」

私は少女をその場において一目散に走った。

少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。朝鮮人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。
女は狂ったように絶叫していた。

「汚ねえ・・・・」

うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。




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